水曜日, 7月 17, 2024

SUNSET LIVE '99

’99年 
 年が明けて、二月に私は一人でハワイへ旅立った。オアフ島から小型ジェットに乗ってPさんが住むマウイ島に向かった。
 マウイはオアフより自然がたっぷり残っていてバスや鉄道などの公共交通機関も充実していない。Pさんはハワイらしいオンボロの車に乗って空港に迎えにきてくれた。
 Pさんは数人の人たちとともにシェアハウスに住んでいる。Pさんの部屋に作ってくれた簡易ベットに、私はお世話になることになった。
 Pさんは一緒に住んでいるボーイフレンドのLを紹介してくれた。Lはフリーのカメラマン。

 私が、オアフに滞在する一週間、Pさんが仕事に出かける時には、時間に余裕のあるLが波乗りに連れていってくれたり、ショッピングモールに連れて行ってくれたりした。
 Lに色々な場所に連れていってもらっている車中で、私は自分がオアフ島によく似た自然あふれる場所で仕事をしている事や、年に一度 野外ライブをしていることなどを話した。
 ある日、Lが「紹介したい人がいる」と、言って先日行ったショッピングモールへPさんも一緒に連れて行ってくれた。
 そこには腰まであるドレッドヘアーの黒人のすらりとした女性が真っ赤なロングドレスを着て立っていた。年の頃は私よりずっと年上だろう。Lは彼女にハグをしてから私に紹介してくれた。
「こちらはサラ。歌手なんだ。こちらは日本からきたPの友達のM」
 私がにっこり微笑むサラさんの佇まいの美しさに息を飲んでいると、
「ハイ、M」
 と、言ってサラは私を軽く抱擁した。
 私はびっくりしながらも、彼女の肩を抱き返した。甘い南国の香りが彼女の身体中から漂っていた。
 私たち四人はショッピングモールの駐車場からLが運転する車で海へ向かった。
 海岸でLが、
「サラは素晴らしい歌歌いなんだよ。Mも出会ってわかっただろうけど彼女はまるで天使なんだ」
 私は確かに、と思った。出会った途端に気持ちが高揚していい気分になる。こんな人はなかなかいない。続けてLが、
「どうだろう、MがやっているSUNSET LIVEにサラも出ることできないかな?」
 と言ってきた。
「ハワイからくるの?」
 と聞くと、
「そうだよ行くよ。ギャラは○万円でいい。その代わりサラとPと僕の渡航費を出して欲しい」
 なぬ?いきなり仕事の話だ。このギャラが安いのか高いのかの相場もわからん。サラが来るのにLもPさんも同行って・・・
「わかった。話は聞いておく。私だけじゃ今ここで決められないから」
「お願いM、絶対にいいライブするから。Hさんによろしく言ってよ」
 と、Pさんが懇願する。
 なんかややこしくならないといいけど、と思いつつ楽しい旅を台無しにしたくない私は生返事をしておいた。
 Lは海岸でサラの写真をバチバチ撮っている。
 その日はサラも交えて夕食をした。明日、私は日本へ帰る。
 翌日、空港まで送ってくれたPさんは、
「絶対に日本にサラと私たちを呼んでよ、約束よ」
 と、まるで話が決まったかのように強引だ。Lも、
「これはサラの写真のフィルム、好きなのをフライヤーに使ってね」
 と、言って数本のフィルムを私に手渡した。
 私は笑顔でお別れしたかったので、フィルムを受け取ると、何も言わずにっこり笑って搭乗口に進んだ。
 なんかあの二人の間では、サラと一緒に日本に行くことになってる気がする。

 日本に戻り、久しぶりにSUNSETへ出勤した。
 SUNSETは、オアフ島のイメージで出勤したら、日本海に面する玄界灘が荒れてて演歌の世界だった。そして寒い。
 私はハワイで出会ったサラさんが今年のSUNSET LIVEに出させて欲しいと言われた事、それも三人分の渡航費がくっついて頼まれたことをHさんに話した。
 
 まだ春が顔も覗かせない荒れた波の日に、毎年SUNSET LIVEでダンスを披露してくれているダンサーのNさんとその旦那さんのFさんがやってきた。Fさんは時々福岡のテレビに出ていたり、イベントのプロデュースをしたりしている人だ。
 カウンターでお茶を飲んでいるF夫妻を、Hさんが話し相手になりながら楽しそうにしている。
 そこに電話の音がなって一枚のファックスが流れてきた。
 ファックスはハワイからのもので、サラのSUNSET LIVEに出演するためのギャラと渡航費の確認をしたいと言うものだった。
 私はHさんにそのファックスを見せた。Hさんはファックスを眺めたまま、うんともすんとも言わない。横にいたFさんが、
「どうしたの?」
 と聞いてきた。私は、ハワイに行ったときの経緯を簡単に説明した。Fさんは、
「このファックスの文面からすると、向こうはもう日本に来ることが決定してる感じやね」
 と言う。私は顔が凍って、
「そうなってますね。どうしよう。旅先で細かい話を詰めるのが面倒くさくって生返事しちゃったんですよね」
 と、そのときの気持ちを思い出して正直に言った。Fさんは、
「旅先であろうとも、SUNSET LIVEの出演の生返事はいかんかったね」
「そうですね」
 と、言いながら私は深く反省した。続けてFさんは、
「このサラさんと言う人が、どれだけ素晴らしい人かはわからんけど、今ここにいる僕たちは全く知らない。その人を呼ぶために三人分の渡航費とこのギャラはちょっと高いんじゃない?コレだったら日本である程度知名度のあるミュージシャン呼んだ方がお客の反応もいいと思うよ」
 と言った。私は、全くその通りだと思った。
 Hさんの様子を見ると、腕を組んで考え込んでいる。
「ここで今回は呼べません、とは言えんやろう。うちが出せる渡航費とギャラを全体から考えてそれから返事をしよう。」
 と、Hさんは言った。私は、
「わかりました。今回はすみません。今の現状を先方に伝えておきます」
 と言って、その場は終わった。
 
 玄界灘が時々大暴れして、サーファーたちがウハウハしながら海に入っていた冬が過ぎ去ろうとしていた。まもなく桜の花が咲こうとしている。
 そろそろ今年のSUNSET LIVEの内容を決めていかないといけない。
 そんなことを思っていたところで、Hさんの大阪の友人が、あるミュージシャンを日本に呼ぶという情報が入った。
 そのミュージシャンはイギリス在住で、バンド、スカタライツやザ・スペシャルズに参加しているジャマイカ出身のトロンボーン奏者のリコ・ロドリゲスという大物だ。
 昨年ビッグネームのジョー山中を読んで大盛況だったSUNSET LIVEのことを思うと、今年はどんなミュージシャンで観客を喜ばそう?というのが私たちの課題だった。私はHさんに、
「呼びたいですね」
 と、問いかけた。Hさんは、
「呼びたいね。でもリコ一人やって来ても、バックバンドはどんなふうにする?」
「リコは、どこで公演するんですか?」
「大阪と東京でするらしいよ」
 その会話の後、リコ・ロドリゲスをSUNSET LIVEに呼ぶという前提で、私は東京公演を見に行くことにした。
 大阪よりも以前住んでいた東京の方が土地勘もつかめていて動きやすいし、弟のところに泊めてもらえるから宿泊費も浮く。ギャラの話はHさんがリコ・ロドリゲスを呼ぶ大阪の友人との話でだいたいの相場が出来上がっているようだ。

 私はリコ・ロドリゲスを観に東京へやって来た。会場の大きめのクラブにはSUNSET LIVEにも呼んだスカフレイムスのメンバーや大阪のデタミネーションズのメンバーも来ていた。
 ライブが始まり、リコ・ロドリゲスの演奏が始まった。
 しかし、バックバンドがなんとも冴えない。イカ天に出ていたら小さくなって消えてしまうタイプのバンドだ。
 リコ・ロドリゲスの威力は充分なのに勿体無いな、と思いながらそのライブを見終えた。
 ライブの後、会場にいるデタミネーションズのメンバーと談話しながら、
「今年のSUNSET LIVEにリコ・ロドリゲスを呼ぼうと思っている。そのバックバンドをデタミネーションズがやってくれないだろうか」
 と、打診した。
 デタミネーションズのメンバーは、バンドの仲間全員で話し合ってから、後日連絡すると言ってくれた。
 ライブを終えたリコ・ロドリゲスにも会うことができた。イタリアにいた頃を思い出して、四苦八苦しながらの英語で、リコ・ロドリゲスに、
「私たちがやっている海岸の近くの自然あふれる場所でのライブに演奏しに来てほしい」
 と、頼んだ。
 ジャマイカ人だけど南国の人っぽくない小柄なリコ・ロドリゲス。長いラスタヘアーを大きなベレーようなラスタ帽の中に入れ込んでとても愛嬌があるおじいさんのようなリコ・ロドリゲスは、ニコニコ笑いながら
「OK、OK」
 と言って私の手を握り締めてくれた。
 やった、リコ・ロドリゲスがSUNSET LIVEにきてくれる。
 一泊二日の東京行きを終え、翌日いつものようにSUNSETへ出勤した。
 仕入れを済ませたHさんがやって来た。
「おはよう、Mちゃん。東京はリコはどうやった?」
「よかったですよ、ゆっくりお伝えしますね」
 開店前の賄いの時に、昨夜のライブの様子やリコ・ロドリゲスの好反応な様子、バックバンドをデタミネーションズに頼んだことを話した。
「それはナイスな組み合わせやね」
 と、Hさんも喜んでくれた。きっとあの東京でのライブよりも、もっと良いものを観客に見せることができる自信があった。
 「やったねMちゃん、ついにうちのライブに外タレが来るばい。それもスカの大御所リコ・ロドリゲスとか、嬉しかー」
 Hさんはとても嬉しそうだ。よかった、きっと今年のSUNSET LIVEもすごいことになりそう。
 私たちは、夏を前に胸が踊っていた。
 デタミネーションズからリコ・ロドリゲスのバックバンドの承諾の連絡が入り、今年のSUNSET LIVEのトリが決まった。
 ハワイのミュージシャンサラは、いろいろと先方に交渉した末に出演することになった。

 今年のSUNSET LIVEの出演者が一つずつ決まっていく。その中で一つ難関があった。
 大きくなっていくSUNSET LIVEに外国からミュージシャンを呼ぶのにはイミグレーションの許可がいることがわかった。
 その作業を一人でするのは心細すぎるので、SUNSET LIVEで毎年踊っているココナッツのダンサー、Nさんのご主人のFさんにサポートをお願いした。
 Fさんはいろんなイベントのプロデュースもしてたから喜んで引き受けてくれた。よかった、これで心細さは解消できた。
 第7回のSUNSET LIVEにはリコ・ロドリゲスとデタミネーションズ、ハワイからのサラ、ロッキンタイム、カジャ&ジャミンと決まっていった。今年も二日間。
 今回のSUNSET LIVEのチラシやポスターは私のイラストではなく、もっとインパクトの強い絵柄にしたかった。
 東京のCDショップで働く弟のMrの友人で、切り紙のモチーフでシルクスクリーンの作品を展開をしているソウルカッターコマツ君のことを思い出した。躍動感あふれる作品で確かRC サクセションのCDジャケットとかも携わっていた。その彼にイラストを依頼した。
 ソウルカッターコマツ君は、来年やってくる21世紀の幕開けを思わせるような、明るい生命力を感じさせる作品を作ってくれた。今までにない力強い印象のポスターやチラシができつつある。
 私とFさんは、毎週イミグレーションに通った。
 イミグレーションは、なかなか許可を下ろしてくれない。行く度に、招聘するにはこんな条件がいるとか、手間のいる書類を提出してくださいとか、嫌がらせのように色々要請してくる。
 外国からミュージシャンを招聘することが、どれだけ大変なことかを痛感する日々だった。
 やっとのことでリコ・ロドリゲスのSUNSET LIVE招聘の許可が下りた。
 これでイギリスから彼を呼べる。
 と思っていた矢先に、イギリスのリコ・ロドリゲスから連絡が入った。
 なんと、前回リコ・ロドリゲスを日本に呼んだHさんの友人が大麻所持の疑いで逮捕されたのだ。そのことをリコ・ロドリゲスが聞きつけて、そんな友人がいるHさんのもとへは来たくない。と言い出したのだ。
 やっとイミグレーションの許可が下りたところで、なんですと。来ない?
 もうポスターもチラシもリコ・ロドリゲスの名前を大きく掲げて作ってしまった。ここで、「あぁそうですか、来れませんか、それはしょうがないですね」
 なんて易々と引き下がるわけにはいかない。私たちは、彼が来日しない、と言っていることは最小限の人にしか伝わらないように努め、SUNSET LIVEの開催に向けて動いた。
 リコ・ロドリゲスは、日本にいく際に「自分を保護する弁護士をつけてくれ」と言ってきた。弁護士がいれば来日すると言っている。彼はレゲエミュージシャンでラスタマン、彼も大麻を嗜んだりするのかもしれない。それで及び腰になっている可能性もある。
 私はSUNSETのスタッフルームでぼんやりしていた。
 ふと、同級生Rのお姉ちゃんが東京で弁護士をしていることを思い出した。Rに連絡してRのお姉ちゃんの連絡先を教えてもらい自分の携帯電話から連絡を入れた。
 Rのお姉ちゃんは、時々一緒にライブにも行ったりして話のわかる姉貴だ。電話でリコ・ロドリゲスの案件を話すと、
「良いよ、私が弁護士として保護するって言って。その代わり日本に来る前一週間は絶対に大麻を使用しないこと。検査しておしっこで出たら何も弁護できないからね。それを条件につけて先方に話して」
 と、あっさり承諾してくれた。
 はい、弁護士つけましたよ、これで来てくださいね。で、ご機嫌を万が一、損ねてはならない。私は音響会社のTさんのところへ相談に向かった。
 西日本一の音響会社。きっといろんなケースのミュージシャンのことを知っているだろうし、いろんな経験を持っているだろうと思ったから。
 善は急げと音響会社へ出かけて、Tさんに今現在の状況を説明した。Tさんは、
「よし、Mくん、誠意を込めて一緒にリコさんへ手紙を書こう」
 と言って、手紙の文面を口にしだした。私はそれを書き留めて、こちらの気持ちを精一杯詰め込んだ手紙を書いた。

 1999年、第7回SUNSET LIVEまで、あと二週間を切った。
 リコ・ロドリゲスへ、イギリスから福岡への往復チケットを同封した書留の手紙を出した。
 しかし返事はこない。
 もしも来なかった時はどうなるんだろう。イベントの会場でなんと言って言い訳すれば良いんだろう。もしもの時の事を考えると、どの対策がベストなのか全然見当がつかなかった。
 それでもイベントの宣伝は続ける。
 宣伝営業の途中で、「なんか精力つくもの食べないとな」と思いながら、薬院のボン・ラパスで昼ごはんを物色してたら、バッグの中の携帯が鳴った。
 私は、食品売り場の棚を見ながら電話をとった。相手はHさんだった。
「Mちゃん?」
「はいMです。お疲れ様です」
「たった今、リコ・ロドリゲスからこっちに連絡が入ったよ。来ますって、SUNSET LIVEに来るって!」
「本当ですか?よかった」
 そう答えると、携帯電話を胸に抱きしめて、私はヘナヘナとスーパーの床にペタンと座り込んでしまった。体が震える。ワンピースの下は裸足にサンダルを履いただけの私の足に、スーパーの冷房で冷えた床の冷たさが、ますます震えを増した。
 よかった。
 この数ヶ月、ずっと見通しの悪い樹海の中を、枝や木をかき分けながら歩いているような気分だった。やっと視界が晴れて向こう側が見えてきた気がした。
 いつも通り、何もかもが揃ってSUNSET LIVEの日を迎えられるように手はずが整った。

 いろんな思いが巡る中、遂に第7回目のSUNSET LIVEの日がやって来た。
 今年は観客が昨年よりもっと増えるだろうと、SUNSETの店舗の西側の空き地も利用して、会場を東向きに設営し観客用のスペースをグッと広げた。
 一日目の土曜日、いつものTsとKtにしっかりとサポートをしてもらって、終演時間にも余裕を持って終われた。
 ミュージシャンが宿泊する志摩クラブではイギリスからやって来たリコ・ロドリゲスと大阪からやって来たデタミネイションズがリハーサルをやっているはずだ。
 私は志摩クラブへ様子伺いと挨拶に行きたかった。しかしこの頃は夏バテ気味で明日のステージのことを考えると体力温存しておいた方がいいと思い、行くのをやめた。初めての外国からのミュージシャンの招聘。やることはやった。どうぞたくさんの人を喜ばすことができますように。
 遂に、外タレを初めて呼ぶSUNSET LIVEの日がやって来た。日々の疲れからかしっかりと眠れず猛烈な緊張感で目が覚めた。やり抜こう、気持ちはそれだけだった。
 本日も晴れ、天気は申し分ない夏日だ。会場の先に見える海岸は、こんな夏の日なのにイベントの開催を祝ってくれているかのように、また波が上がっている。サーファーたちも喜んでいるだろう。
 早朝からのリーハーサル。数ヶ月ぶりにリコ・ロドリゲスに対面する。
 見た目はなんてことない外人のおじさん。そんな彼を囲んでデタミネーションズのメンバーとステージに立つと、バックバンドのデタミネイションズが緊張で張り詰めているのがわかる。
 世界レベルのトロンボーンの音が鳴る。きっと素晴らしいステージになる、と確信を持った。
 リハーサルが終わり、本番が始まる。TsとKtも私の緊張がわかっているかのように対応してくれている。
 ハワイから来たサラは、日本での知名度こそないものの、そんなことはお構いなしで明るいハワイの日差しを連れてきたかのようなステージだった。
 サラはステージが終わると、リコ・ロドリゲスと楽しそうに舞台裏で談笑している。なんと、サラのお父さんとリコ・ロドリゲスが知り合いだったという話で盛り上がっていた。
 サラを呼んでよかったんだ。彼らをここに呼ぶまでに、それぞれ一悶着あったが、その光景を見て、妙に納得した。人の縁なんて思わぬところで結ばれているもんだ。
 時間は刻々と過ぎていく。あっという間にトリのリコ・ロドリゲスのステージとなった。
 今日すでに出演したミュージシャン達もリコ・ロドリゲスのステージを心待ちにしているのがわかる。
 定刻通りステージは始まった。デタミネーションズのイントロが始まるとリコ・ロドリゲスがステージに上がる。
 リコ・ロドリゲスはソウルカッターコマツ君の絵が施されたスタッフTシャツを着てステージに上がってくれた。色々あったけど、リコ・ロドリゲスの思いやりを感じた。
 今年も去年以上に盛り上がったSUNSET LIVEだった。その手応えをステージの脇から多くのオーディエンスを眺めながら身体中に感じた。
 まるでここから世界中に発信してしているような気にすらなった。
 大観衆の中、幕を閉じたSUNSET LIVE。
 演奏が終わってひと段落したリコ・ロドリゲスを宿泊先の志摩クラブまでTsに送ってもらった。
 会場の片付けが終わったら私も志摩クラブへ向かった。
 明日の朝、一番の飛行機に乗るリコ・ロドリゲスを福岡空港まで送るのだ。リコ・ロドリゲスを送ったTsが志摩クラブのフロントで待っていてくれた。私はTsに、
「明日朝一でここに集合ね。一緒にリコを送ろう」
「了解、じゃお疲れさんです」
「うん、お疲れさん、ありがとうね」
 私たちは、リコ・ロドリゲスが福岡から旅立つ便を、翌朝の一番の便で取っておいた。
 Hさんの友人の大麻疑惑とか、リコ・ロドリゲスが来るか来ないかの擦ったもんだがあったため、福岡での滞在時間を極力短くしたかった。福岡の私たちの周りで、問題が発生しないための対策だった。
 志摩クラブの大浴場に浸かり、部屋に敷いた布団でゴロンと横になると、ストンと沼地に落ちていくかの様に眠れた。
 翌朝、私は身繕いを済ませてロビーに向かった。Tsはすでに着いていて待っている。
 リコ・ロドリゲスの様子を見にいくと、彼も部屋を出るところだった。リコ・ロドリゲスに、
「おはようございます。では、空港へ向かいましょう」
 と、言うと彼は、
「グッドモーニング、サンキュー」
 と、言ってTsに荷物を預けて、私の車の後部座席に乗った。
 大切なイギリスからのお客様を、事故がないように空港まで私の運転で送る。任務は、後もう少し。

 早朝の空港は人気もなく、まだ店も開いてない。私たちの歩く音だけが響いていた。
 一軒だけ開いていたコーヒーショップでコーヒーを飲んで、搭乗カウンターが開くのを私たちは待った。
 席を外したTsが、どこからかレポートノートとマジックを買って来た。
「どうしたの?」
 と聞くと、
「サインをください」
 と、リコ・ロドリゲスへ差し出した。リコ・ロドリゲスは、ノートの裏表紙のボール紙の所にサラサラと書いてTsに渡した。
 しばらくすると搭乗のゲートが開き、リコ・ロドリゲスは私たちの前から姿を消した。
 私はやっと肩の荷が降りた気持ちで、
「あぁ、猛烈に疲れた。Tsやるね。サインとかすっかり忘れていたよ。ありがとう。来年の年賀状はこれに決まりだね」
 そう言うと。Tsは誇らしげな顔をしていた。
 サーファーで体格もいいから、いい用心棒だと思ってたけど、今では頼もしい片腕だ。
 私たちは駐車場に戻り、西の海の方へ向かった。私は、
「あ〜、疲れた。リコさん呼ぶの大変だった」
 と、漏らすと、Tsは
「早く帰ってもらって正解だったと思うよ」
 と言うと、昨日、Tsがリコ・ロドリゲスを志摩クラブに送る車中で、リコ・ロドリゲスは、セイタカアワダチソウが群れて生えているのを嬉しそうに見ながら、
「オー、ガンジャー!ガンジャー!」
 と、唸ってたらしい。
 何もなくてよかった。私は、ほっと胸を撫で下ろした。

 それからしばらく経って、ロンドンのリコから我が家に封書が届いた。
 その手紙には、
「あの素晴らしいビーチや自然あふれる場所で、新しいバンドと一緒に行って演奏がしたい。また呼んでほしい。頼むよM」
 と言うものだった。
 あの日のSUNSET LIVEは、リコにとっても印象深いライブだったんだ。よかった。
 この回で、私はSUNSETを辞めてしまった。
 けれど、リコ・ロドリゲスは、その後再びSUNSET LIVEに出演した。

 

SUNSET LIVE '98


’98年  

 季節は巡り、SUNSETで働き出して四度目の春がやってきた。
 最近ではHさんが大好きなサーフィンがどんどん人気のスポーツになっていっている。
 SUNSETのカウンターでは、世界中のサーファーたちが波乗りをしているサーフィンムービーをカウンターに置いた小さなビデオデッキからいつも流している。
 やってきたサーファーも、そうでないお客もみんな釘付けになって見ている。
 その中でもインドネシアのニアス島の過去のサーファーたちを撮ったものが人気で、BGMは迫力のあるジョー山中の声だった。
 SUNSETへやってくる客たちは小さな画面の中の大きな波を見ながら海外での波乗りに憧れていた。

 今年で6回目となるSUNSET LIVE。
 ある日、天神の親不孝通りでレコードショップをしているKさんから連絡が入った。それは、
「ジョー山中の奥さんが福岡の人で、自分と懇意の仲であること。彼女及びジョー山中さん本人もぜひ福岡でライブをしたいと言っている。次のSUNSET LIVEに出演できないか?」
 と、言うものだった。
 私とHさんはびっくりした。いつもSUNSETのカウンターのビデオで見ているジョー山中の声を生で聴ける。それもかなりのビッグネームだ。
 しかし、先方からのギャラの提示が今までのミュージシャンからは考えられない破格だった。
 私がKさんが言ってきた金額をメモしていると、そこにHさんが横から「これでは無理」と書いてきた。
 全く、その通りだ。今まで来てもらっていたミュージシャンの4、5倍の価格だ。ライブの収支が組み立てられない。
 私たちは考えに考えて、今年呼ぼうとしていたミュージシャンに、今年のギャラは今までに比べるとずいぶんと少ないものになるけれど来てもらえるか交渉した。
 どのミュージシャンも、いい気持ちではなかっただろうけど、ジョー山中を呼ぶにあたってとても苦労していることを伝えると、わかってもらえた。
 ジョーさんの連絡先は自宅で、担当は奥さんのAさんだった。私は食い下がりに食い下がってギャラの値段交渉をした。
 先方は、どうしても福岡の地で、ジョーさんが歌いたかったらしく、言ってきたギャラを半分以下にしてもらった。
(今となっては、よくぞこんなことしたもんだと思う・・・)
 Hさんは、サーフィンムービーに再感動し、福岡以外の場所でもツアーをして稼いで欲しいことを伝えつつ、ジョー山中&レゲエバイブレーションズがSUNSET LIVEにやってくることになった。
 これはすごいことになる!私はワクワクしていた。
 しかし、Hさんは何かが引っかかっているように見える。
「Hさん、何かひっかってます?」
 私は尋ねた。Hさんは、
「いやぁ、ジョー山中来るの、めちゃくちゃ嬉しいよ。でもさ、毎回天気に恵まれているからいいけど、万が一雨が降ったり去年は逸れたから良かったけど、イベント当日や前日に台風が来たりしたときのこと思うとちょっと腰が引けるんよね」
「なるほど、そうですよね」
 私はそりゃそうだ、と思いながら、ふっと弟のMtの顔が浮かんだ。
「Hさん、うちの弟が損害保険の会社で働いているので、ちょっと相談してみますね」
 と、言うと、
「そんなのあるのかな?まぁ聞いて見て」
 と、言われた。
 その日の夜に東京にいる弟のMtに電話をして聞いた。Mtは、
「イベント保険なるものはあるよ。保険料はイベントの収益見込みの10%ほどで開催日の二週間前に入金することと、大蔵省の認可がいる。僕は今、東京の本社勤務だから手続きしてもいいよ」
 とのことだった。私は、
「オーナーに聞いてからまた連絡するね」
 と、言って電話を切った。
 翌日、Hさんにイベント保険の話をすると、保険料の掛け金の高さに唸っていた。
 私は、
「万が一機材を台風で飛ばされたり、もしくは悪天候でイベントができなかった時の保証はある。地方の保険の代理店だと東京の大蔵省まで申請に行かなければならないのが、弟のMtに頼めば彼が全部してくれる」
 と、この保険の利点を伝えるとHさんは首を縦に振った。
 これで万が一のことが起きても保証は確保できた。
 ついにSUNSET LIVEにビッグネームがやってくる。

 第6回目のSUNSET LIVEも二日間。
 一日目の出演者はあっという間に決まった。
 昨年の様子を知った地元ミュージシャンが手ぐすね引いて待っていたと言う感じだった。
 SUNSETのBGMで聞いていたリトル・テンポ。M兄が、見つけてきてみんなで、
「このリトル・テンポって言うダブユニットなんかいいよね」
「SUNSET LIVEに来てくれるか聞いてみようか?」
 と、言っているうちに出演が決まった。
 今回の二日目は、ジョー山中&レゲエバイブレイションズ、お馴染みのカジャ&ジャミン、スカフレームスの時に来てくれた大阪のスカバンドのデタミネイションズ、新しく見つけたリトル・テンポ、ココナッツダンサー、地元の大学生のバンド、スカロケッツ、と盛り沢山だ。
 さぁ、去年のような情けない終わり方をしないようにしなければ。
 出演者が多いのと、ここで「SUNSET LIVE」とはなんぞや、と言うことを改めて説明するために今まではA4サイズの一枚ペラモノだったチラシの形を、A4サイズを二つ折りにしたものに変えた。
 そこには、こんな言葉を書き添えた。
「九年前に民家や松林を潜り抜けないとたどり着けない場所で、こっそり始めたSUNSET。
 皆様のおかげで少しずつ私たちも成長してきました。
『こんな海の綺麗なところで心地よい音楽をみんなで楽しめたら』
 と、始まったSUNSET LIVEも今回で6回目となり、たくさんの人を魅了するライブとなりつつあります。
 何もかも簡単に手に入ってしまう、物質的に不自由のない世の中で、生きていくことの本質が問われる時代になってきています。
 都会の生活では、いつの間にかぼやけてしまう生きていく理由。
 複雑に絡まった社会を逃れ、自然のエネルギーに触れることによって、次第に心が解れていき、物事の全てがシンプルに見えてくるはずです。
 いつも変わらぬ姿で迎えてくれる自然に気づき、感謝することが地球で生活する私たちの原点ではないでしょうか。
 大したことことなんて出来ないけれど、例えば『ゴミは持ち帰るぞ』とか、『タバコのポイ捨てはしない』とか、小さなことでもそういう思いやりや、心の余裕を持ってスマートにできる人ってかっこいいですよね。
 そんな人と自然と音楽を存分に楽しめるSUNSET LIVE。今年も皆様を心よりお待ちしています」
 新しいミュージシャンを店のスタッフが発掘したり、チラシにのせる文章をみんなで考えたり。SUNSETのスタッフ全員で作り上げていくイベントにSUNSET LIVEがなっていっている。
 きっと、ますます大きなイベントになっていくんだろう、と私は思った。

 出来上がったチラシを持って、今年も百軒余りの協力店を回る。最近ではどの店もおなじみになってきて、
「まいどです。SUNSETのMです〜」
 と、言いながら協力店に入っていくと、笑いが取れるほどになってきた。
 私は今年も頑張るぞ、と自分に喝を入れながら協力店を回っていった。

 第6回のSUNSET LIVEの日がやってきた。前日に組み立てられたステージ。今年も二日間とも晴れの予報だ。
 タイムテーブルもしっかりと余裕を持って、何かあっても夜10時発の臨時最終バスまでに少し余裕があるように入念に組み立てた。
 会場やゲストミュージシャンの送迎係のスタッフもずいぶん人数を増やした。私の横には例年通り安心できるTsとKtが構えていてくれている。
 ジョー山中御一行の送り迎えなどのアテンドには、音楽に詳しくって気が利くS市君にお願いした。福岡に着いてから、会場入り、ホテルまでずっと付き添ってもらう。
 店とステージの間にある、いつもは倉庫に使っている小屋をゲストの控え室にして、同級生のYにミュージシャンのお世話係をお願いした。
 イベントの告知をどこにすると効果的かや、依頼の文章の書き方を新聞社で働いている父や高校の国語の教師だった母に色々レクチャーしてもらった。
 やってくるミュージシャンの最近の動向やファン層などの情報を、東京のCDショップで働く弟のMrにいろいろ教えてもらった。
 イベント保険は、本社勤務のMtがすんなりと保険を通してくれた。
 自分の周りにいる人たちの力を集めまくった。もうこうなると一家総出でイベントを盛り上げている感じだ。

 よし、やれることは全部やった。あとはそれぞれの担当に任せて二日間突っ走るしかない。
 どうか今年もたくさんの人を喜ばすことができますように。祈るような気持ちで開場の時間が迫ってくるのを待った。
 一日目の出演者は喧しく時間の説明をしたこともあって、昨年より冷や冷やすることはなかった。TsやKtも早め早めに出演者を呼んできてくれる。頼もしいかぎり。
 昼の12時から最終のバスが出発する夜の10時まで、瞬きをする間に時間が過ぎていくかのような一日だった。

 ついに明日はジョー山中がやってくる。
 映画で見たことある人に出会えるなんて、どんな感じなんだろう。
 控え室のYやS市くんに「明日もよろしくお願いします」と、挨拶をして、私を始めスタッフも店を出た。

 何かに守られているかのように次の日も晴れた。まぶしく上がったお日様を見ながら、胸が高鳴る。事故がない限り保険は保険のままで終わる。大きなお守りだ。
 SUNSET LIVEの会場に着くと、昨日と同じようにすでに音響のスタッフさんたちが動き出している。
 今日は今までのライブの中で一番出演者が多い。ステージの袖にTsとKtを呼んで今一度の確認をする。
 他の場所のスタッフとも挨拶をしたりしているうちに、時間は刻々と過ぎていく。
 リハーサルのためにジョー山中のメンバーがやってきた。
 誰よりも一際目立つジョー山中。デカイ。今までやってきた出演者と全然違う。
 何だろう、これがオーラってやつだろうか。
 私は真っ先に駆けつけて、挨拶をした。
「はじめまして、SUNSETのMです。今回の舞監をします。よろしくお願いします」
 と頭を下げた。
 だめだ、完璧に向こうのメンバーに飲み込まれている私がいる。
ジョー山中のメンバーはステージに向かって歩いて行き、彼らのリハーサルが始まった。
 リハーサルの様子を見ていると、ジョーさんの奥さんのAさんが、私がビビっているのを感じたらしく話しかけてくれた。
「おはようございます。ジョーの妻のAです。今日はよろしくお願いします。私の地元でライブができるのをジョーも私もとっても楽しみにしてたんですよ」
 歳の頃も私と同じくらいだろうか。彼女の優しい雰囲気に、私は緊張していた気持ちが少しほぐれた。

 その他の出演グループの立ち位置の確認や、音出しの確認も終わり第6回SUNSET LIVEの二日目は開場した。
 さぁ、緊張との追いかけっこの始まりだ。1時からの最初の出演者までは、ステージ横のDJブースでDJが音楽をかける。今回は東京からCDショップで働く弟のMrもやってきて演奏の合間にDJをしている。
 スカロケッツのライブから始まり、ダブユニットのリトルテンポ、スカのディタミネイションズ、カジャ&ジャミン、時間が過ぎていくのと共に観客の数がどんどん増している。
 空はうっすらとピンク色に色づき出した。一時間後にステージに立つジョー山中のメンバーに挨拶をしようと控え室に入った。

 控え室に入った途端、その中が緊張感で満ち満ちているのを感じた。
 控え室の真ん中で椅子に座ったジョー山中。
 その周りの人達は全てジョーさんを仰ぎ見るように立て膝をついた低い位置からジョーさんに接している。
(こ、これはまるで戦国時代の武将の陣営の中のようじゃないか!この人の威厳さと言うか圧力ったら半端ない)
 心の中で、そう思いながら、私は、ジョー山中とレゲエバイブレイションズのメンバーに出来る限りの笑顔を作って、
「タイムテーブル通り、あと一時間で出演時間です。よろしくお願いします」
 と、頭を下げた。親ほど年齢が上であろうミュージシャン達に、
「ウィーッス」
 と返事をしてもらえたのをいい事に、私はその場を立ち去った。お世話係のYが部屋の隅の方で苦笑している。
 恒例の盛り上げ隊ココナッツのダンスが会場を盛り上げたところで、レゲエバイブレイションズのメンバーが舞台袖に控えた。
 ついに、SUNSET LIVEの舞台にジョー山中が立つ。
 ダンサーが踊り終わったところで、ステージの後方に畳み十畳分以上はあるだろう大きなフラッグが貼られた。フラッグは赤黄緑のラスタカラーで、真ん中にライオンの横顔が描かれている。
 その旗が張り巡らされたところで、長身のジョー山中がスキップするような軽やかさで舞台に上がって行った。
 会場は黄色い声というよりも、戦場の勇敢な武将を出迎えるような声で「おぉ〜!」と響めきが上がった。
 舞台袖から、ジョー山中を送り出した私も舞台監督というより会場の一観客、おにぎりの中の一粒の米になってしまったかのような気分で、ジョー山中を眺めた。
 舞台の袖から眺めていると、ジョー山中御一行様にずっと付きっきりでアテンドしているS市君が横にいた。私はS市君に、
「あのフラッグ、すごいね」
 と話しかけると、
「迎えに行ったらあのフラッグをジョーさんからアイロンかけとけって手渡されてね。俺がアイロンかけたんよ」
「まじ?ありがとう。ステージの後ろのSUNSET LIVEの文字が一文字も見えなくなるほどのデカさ、大変やったろう、お疲れさん」
「昼ごはんに、前原の定食屋に連れて行ったら、むちゃくちゃ喜んでたよ」
「よかった、あと少しよろしくね」
「オッケー」
 圧巻のジョー山中のステージは、サーフムービーに使われていた曲を次々に演奏していく。
 その様子がもっと見たくって、私は控え室の横に建てられている薪小屋の屋根に登った。
 場内はステージから後方までびっちりの人で、海のように波打っている。ジョー山中の奥さんのAさんも続けて登ってきて、
「うふふ、わたくし結構お転婆ですのよ」
 と、言いながら一緒に会場の様子を眺めた。
 私は側のAさんを見ながら、ジョーさんとアヤさんは、どこで出会ったんだろう?などといろいろ想像を巡らしながら、いつか二人の馴れ初めとか、聞けたらいいなと思った。
 
 ノリに乗ったステージの最後の曲は、静かなキーボードのイントロから始まる映画「人間の証明」の主題歌。会場中が彼の威力に飲み込まれた感じだった。
 あの映画、小学生の頃上映されてたよな、テレビでやってるのを見て、ちょっと怖いと思ったのだけ覚えてる。今度もう一度、ビデオ屋さんで借りてきて見てみよう。
 ただでさえ体格のいいジョー山中はステージに立つとそれ以上に大きく見えた。
 すごい人がSUNSET LIVEに来たもんだ、と感慨深く思った。

 大観衆の中、ジョー山中&レゲエバイブレイションズのステージが終わり、第6回SUNSET LIVEの幕は閉じた。
 興奮冷めやらぬオーディエンスは、なかなか退場しない。
 そりゃそうだよな。今までは海でプカプカ浮きながら聞いていたサーファー達もたくさん会場へ入場してくれていたようだった。
 やっと、会場内に隙間ができ設営していた音響設備を片付けられる状態になった。
 最終の臨時バスの時間が近づいている。ジョー山中御一行も門限が10時の志摩ホテルに送ってもらわないといけない。
 そんなことを考えていたら、店の周りに人だかりができている。
 大盛り上がりだったステージの後で、ジョー山中が、
「今からみんなで打ち上げをしよう!」
 と、大きな声で言っている。誰かが、
「Mさーん、電源コード巻いてないでちょっとこっちに来て」
 と、聞こえる。近づくとビールのジョッキを渡された。ジョー山中が、
「すばらしいイベントに参加できてよかった。みんなお疲れさん、乾杯」
 と、ビールジョッキを持ち上げた。
 周りの人も次々にジョッキを持ち上げて、「かんぱーい」と言いながらジョッキを鳴らしあって乾杯している。
 うわぁ、この後どうなるんだろう。このまま飲み続けるんだろうか?そんなことを思っていると、渋々、Hさんが、
「宿泊先の門限時間が迫っているので、そろそろホテルに向かってください」
 と、ジョー山中たちに言う。ジョー山中は、
「こんなに盛り上がって気持ちがいいのにもう宿に帰れだと?」
 と、ムッとしている。なんとか言い含めてS市君の車に乗ってもらった。

 そうだよな。都会からこんな海が見えて草木があふれる気持ち良いところに来て、
「演奏終わりました。はい宿にお帰りください」
 は、切なすぎる。どこかもう少し融通の効く宿泊先が見つかるといいんだけど。ジョーさんごめんなさい、の気持ちでいっぱいだった。
 ジョー山中御一行が去っていって、ある程度片付いた会場を後に家路についた。
 この土地で、この場所で限られた予算でやっていくのには、いろんな拘束がある。まだまだ考えなければならない事はたくさんある、と思った。
 第6回目のSUNSET LIVEが終わってしばらくしても、ジョー山中をSUNSET LIVEへ呼んだ反響はすごかった。みんな握手したとか一緒に写真撮ってもらったとか、わざわざSUNSETまで言いに来てくれる。

 多くの人を惹きつける人の力って相当な威力がある事を、ジョー山中を呼んで、ライブを間近に見て体感した。
 普段生活しているとなかなかそう言った人に巡り合わないから、こんなイベントを通して世の中にはあんな人もいるんだと知れることがありがたいと思った。
 夏の興奮を持ったまま季節は秋へと向かう。
 
 自然があふれる中に身を置いて、自分に素直に生きていくと言うことを、SUNSETやライブから学んだ。
 そうすることで私自身が気がついていなかった能力を発揮することができた気がする。
 これから自分がどうなっていくのか全く予測がつかない。
 きっとそれは私だけじゃなくて誰でもだろうけど。
 信じよう、目の前にある海や砂浜や木々の声を。
 たぶん、いやきっと間違った方向には導かれないはず。
 時々こんなことを一人でボーッと思ってしまう。
 きっとイタリアにいた頃よりちょっとだけ大人になったんだろう。

 SUNSET LIVEが終わって興奮が続いていた店内にも、少しずつ秋の訪れとともに静けさが戻ってきた。
 SUNSETの仕事にも慣れ、SUNSET LIVEの段取りにも少し余裕が出てきた私は、年があけた2月にハワイに行くことにした。少しずつ練習してきた波乗りを大きな波に乗ることは無理だろうけど少しは楽しめるかな、と言う思いもあってハワイのマウイ島に住む友人Pさんのところに行こうと考えた。

 年末に作る年賀状は今年はジョー山中のステージに翻っていたフラッグをそのままデザインして出した。感動をありがとうございました。と言う気持ちを込めて。

 その後、幾年かの時が経って、ジョーさんの奥さんのAさんが私が営むカフェにきてくれた。
 Aさんは、先祖代々続く由緒ある家業を受け継ぐために、決して仲違いしたわけではなく、ジョーさんと別れて福岡に戻ってきたらしい。
 私は催促したつもりはなかったけれど、Aさんはジョーさんのことを話してくれた。
 
 ジョーは、横浜でお父さんが戦争で服役中に、何かがあって生まれたの。
 その後、お父さんは戦地から帰ってきた。
 彼は七人兄弟の真ん中だったらしい。
 彼だけが兄弟の中で肌の色も骨格も違っていたけど、両親は分け隔てなく彼を育てた。
 ジョーは小学生の時に、結核になって入院してしまう。
 彼は治ったんだけど、看病していたお母さんが亡くなってしまう。
 その後、兄弟も多いからお父さんが新しい奥さんを迎える。
 その新しい奥さんが、
「どうしてもあの子だけは自分は育てられない」
 と言って、ジョーは孤児院に送られてしまう。
 私たちね、毎年クリスマスには、ジョーがサンタクロースになって、その孤児院に行ってたのよ。
(もう、ターガーマスクとあしたのジョーと人間の証明をそのまんま生きてきたような人生だ)

 ジョーはね、ボクシングをしていた若い頃に、銀座の喫茶店でロックな人に出会うの。
 それは内田裕也さんなんだけどね、裕也さんがジョーを見るなり、
「君、歌を歌ってみないか?」
 って誘われたらしいの。
 で、自分はボクサーをしてるからって言ったらしいんだけど、結局歌歌いになったのよね。
 裕也さんは人を見る目があるのよ。
 
 私とジョーは裕也さんがプロデュースした映画の撮影現場で出会ったの。
 ジョーは、すごく優しい人だった。
 「人間の証明」の映画のポスターの子供ね、あれはジョーの本当の子供なのよ。
 私たち、彼の前妻の子供たちといっしょに、世界中いろんなところを旅したのよ。

 そうそう、ジョーの家が火事になった時にね、彼ったら火の中を家に入っていって、自分のゴールドディスクだけをを取ってきて、
「これはお前が持っていてくれって」
 って、送ってきてね。それ、今でも私の手元にあるわ。

 と、私たちが知らない人間味溢れる今は亡きジョーさんのことを、やさしく懐かしげに話すAさんは、とても愛おしかった。

 

SUNSET LIVE '97

 


’97年 
 季節は巡り、また春が来る。’97年がやってきた。
 私は、イタリアにいる頃に、
「いったい自分は何がしたいんだろう」
 と思い悩んでいた。
 その気持ちは、すっかり払拭されていた。
 SUNSETで働くこと、年に一度夏に開催されるSUNSET LIVE が、私の生きがいになってきていた。
 もっともっといいイベントをしてたくさんの人を喜ばせたい。やりたいことは山ほどある。いろんなアイディアや想いが毎日毎日溢れ出でて、楽しくてしょうがなかった。
 蕾をつけた浜大根の花が砂浜に見え出した。春はもうすぐだ。玄界灘に面するSUNSETの前のサーフポイントは、波が上がる日が続いていた。

 桜が散ろうとする頃、今年のSUNSET LIVEはどんな風にするか、という事で音響会社のTさんをHさんと訪ねた。例年より早い訪問だ。
 そして、Tさんからある提案がされた。
「毎回、SUNSETの駐車場に設営するステージが一日限りでもったいない。イベントを二日にして、前日を地元のミュージシャンに解放して出演してもらうのはどうだろうか?」
 と、いうことだった。
 言われてみれば、一日でも二日でも設営されたステージは変わりない。
 Hさんは大きく頷き、イベントは二日間開催されることになった。
 音響会社の帰りがけにHさんが、
「今年のチラシ、どんな絵を描く?」
 と聞かれ。私は、
「イメージがあるんです、明日ラフの絵を持ってきますね」
 家に戻って、今年のSUNSET LIVEのラフ画を仕上げた。
 その絵は、ハワイ土産にもらったハワイ諸島の可愛い地図からヒントを得たものだった。
 福岡市の海岸線にある二見ヶ浦の夫婦岩を誇張して描いていて、その二見ヶ浦から四方にビーム光線が発信されているもの。

 今年も和やかに夏を迎えられると思っていた矢先に、今までいた店長やバイトのAちゃんが店を辞めていった。
 私とHさんは、この夏の店のスタッフを集めるのに走り回った。
 やっとのことで大学生の男の子、そして天神でバーテンダーをしていたTRとM兄が見つかった。同級生の二人はそれまで実家暮らしだったのを二人でSUNSETから車で20分ほどの場所にあるアパートを一緒に借りて店に通うと言う。楽しそうだ。
 梅雨が終わろうとする頃に大学生の女の子がふたり夏のハイシーズン限定でバイトに来だした。
 これで SUNSETの夏が越せる。私とHさんは、ほっと胸を撫で下ろした。

 もう夏は目の前だ。今年のSUNSET LIVEは初めての二日間の開催。
 あの目まぐるしい一日を続けてもう一日しなければなのだ。私は気合を入れて、その日に向かう準備をしていった。
 第五回目のSUNSET LIVEは8月の最後の土日に開催する。
 一日目の土曜日を福岡で活躍しているバンドに開放する。
 と、決定した途端、音響会社のTさんの友人のバンドや音響会社で働いていてデビューを控えているバンド。地元大学生が作ったスカバンドなど、あっという間に出演者は決まって行った。
 二日目の日曜日の出演バンドは、第一回から三回目まで毎回出演していたカジャ&ジャミンやハードコアレゲエ。いつも会場を盛り上げてくれるダンサーのココナッツ。
 そして、どこからSUNSET LIVEの事を聞きつけてきたのかレゲエ・ディスコ・ロッカーズという東京のグループがバンドのCDデビューの宣伝もかねて出演したいと問い合わせが来た。
 なんとありがたい事だろう。東京まで、このイベントの話が伝わっていってるんだろうか。
 この先このイベントを続けていくのに、こんな現象がどんどん起きればいいと思った。

 いつもの年のように、チラシやポスターが出来上がると、協力してくれる店に配って回る。
 持って行った先では、
「今年もこの季節がやってきたね」とか、
「お、今年は二日になったんだ。どれどれ、知り合いのバンドだよ。楽しみだなぁ」
 なんて言いながら、すぐに店の壁にポスターを貼ってくれると、ものすごく嬉しい。
 ポスターを持って行ったところで、ポイと店のテーブルに置きっぱなしだったり、バックヤードに持っていって、その後、貼ってくれてるんだろうか?と心配になったりすることもある。
 私も店にポスターを持ってくる人がいたら、目の前で貼ってあげようと思った。

 百軒ほどの協力店にチラシを配り終える頃に夏が本番となっていく。今年も暑い。
 混み合う夏の店を切り盛りしながら、SUNSET LIVEの二日間の出演者のタイムテーブルを決めていく。
 この頃、私は携帯電話なるものを持ち出した。これはすごく便利だ。
 以前東京で働いている頃に、ショルダーバックのような物に受話器がついた携帯電話を会社から持たされたことがあった。(しもしも〜!のあれですよ)
 これはそれとは雲泥の差のテレビのリモコンくらいの小さな物で、どこででも繋がる。これで、どこにいてもミュージシャンからの連絡も取れる。
 しかし、世の中にこの携帯電話を持っている人は、ほんの僅かだった。
 SUNSET LIVE に出演するミュージシャンは十数件にもなった。
 SUNSETのバックヤードから一件一件それぞれのミュージシャンに、
「出演時間はこのタイムテーブルの通りです。出演の二時間前には会場に到着するようにお願いします」
 と、書き添えてファックスを送る。なかなか時間と手間のかかる作業だ。それに間違いがあってはならない。
 イベントの日の朝から夜までが、スムーズに終わるようにするための下準備をコツコツしなくてはならない。「このイベントを続けていきましょう」と、あの日、Hさんに豪語した日からメモしまくっているノート。そこに下準備の一つ一つが書き込まれている。
 以前困った事や忘れていた事を去年、一昨年のページをめくって、やり忘れがないか確認していく。

後一週間でSUNSET LIVEという日にニュースから台風情報が流れた。サーファーでいつも気象情報をチェックしているHさんは、
「たぶんイベントの前日には過ぎてしまうと思うけどね」
 と、比較的安心している。音響会社のTさんに連絡してもHさんと同じ考えだった。
 私もテレビの予報図を見てギリギリ大丈夫かな、と思う。
 ただ出演者や関係者からの電話が店の固定電話や私の携帯にひっきりなしにかかってきてその対応の方が大変だった。
 万が一、台風がイベントの当日に直撃したら大変なことになることを考えるとゾッとした。
 私が各方面からの電話対応に明け暮れる中、SUNSETのスタッフは店の外に置いている植木鉢を店内に入れたりデッキの椅子やテーブルを一纏めにしたりして養生している。
 イベントを目前にしている事もあり、物が飛んだりして事故があったりして、店や敷地内の破損などがないように台風に向けての準備は入念だ。
 過ぎていく台風を見守る間は、ただ固唾を飲んで過ぎていくのを待つしか無い。
 台風は予報通りにやってきて強風と雨をもたらしたが、しっかりと養生しておいたSUNSETとその周辺にはこれといった被害は無かった。
 台風が過ぎたら、また強い日差しが舞い戻ってきた。二三日滞っていた外作業をSUNSETのスタッフ全員で開始だ。
 バタバタと作業を進めていたらあっという間に時間が過ぎていく。

 今年も明日が第五回SUNSET LIVEの日がやってきた。きっと今年も大丈夫。台風も去っていったし。
 前日にはステージの設営がいつものように行われる。Tさん率いる音響会社の人達が黙々と働いてさくっとステージを作ってしまう。私は作業中のTさんを見つけるとお守りに出会えたような気分になり、
「Tさん、今年もよろしくお願いします」
 と、元気よく挨拶をする。Tさんは相変わらずのニコニコ熊さんのような風貌で、
「お、M君、相変わらず頑張ってるね。今年は二日間やけんね、体力勝負よ。台風も過ぎていったし楽しもうね」
 と言いながら、横から肩を組んでポンポンと叩いてくれた。
 この肩ポンポンでもう充分充電された。後は突っ走るだけだ、そう思った。
 設営が終わって、例年のように晴れた朝がやってきた。私は簡単な朝ごはんを終えると、車に駆け込みSUNSETへ向かった。
 SUNSETへ向かう海岸線の海は朝の光を浴びてキラキラしている。「今年も上手くいきますように」と、心の中で祈る。
 カーステレオからは新しいミュージシャン、レゲエ・ディスコ・ロッカーズのナンバーが軽快にかかっている。
 SUNSET LIVEの会場となった店の敷地内には、ポツンポツンとスタッフが揃い出している。店内でドリンクやフードを売る係、入り口でチケットをもぎる係、それぞれのスタッフと確認をしあって、私はステージの横へ向かった。
 第三回目のSUNSET LIVEの時からステージの横で私のサポートをしてくれている体格のいいサーファーのTsとKtは今となっては毎度お馴染みの仲だ。二人がいてくれるだけで鬼に金棒の気分になる。
 TsとKtに、タイムテーブルが行き渡っていることを確認し、
「ミュージシャンが二時間前に会場に到着したらまず私に知らせること。ステージに上がる三十分前には、ステージの袖で待機してもらえるようにすること」
 と、念を押した。
 TsとKtは、「任せとけって」と、サーフィンで鍛えた体の上に着た、パンパンのTシャツから出ている小麦色に焼けた腕にガッツポーズをとりながら笑顔で答えてくれる。
「よし任せた、じゃよろしくね」
 と、言うと
「ウィ〜っス」
 と、言いながら出演者を迎えに駐車場へ向かって行った。
 二日間になったSUNSET LIVEは今まで14時からの開場だったのを12時開場に変更した。これで、より沢山のミュージシャンが演奏することができる。
 12時になると、ゲートから観客が入ってくる。
 13時からTさんの友人達のおじさんバンドの演奏が始まる。おじさんバンドのメンバーはゆったりとした感じで駐車場に着くとすぐにステージの袖に来てくれた。
 時間通りに最初のバンドの演奏が始まり、ミュージシャンとの追っかけっこのような一日が始まる。
 土曜日のバンドは、それぞれ演奏時間は30分。演奏が終わると三十分内で片付けて次のバンドの準備を終えてスタンバイしてもらう。音響のスタッフは猛烈な勢いでその作業をしている。
 一組目、二組目とバンドの演奏が終わり、16時の四番目のゴスペルのミュージシャンの演奏まで後十分となった。
 しかしまだ出演者がステージの近くに見当たらない。私は、携帯電話でTsに電話した。
「Ts、ゴスペルの人たち、まだこっちに来てないんやけど」
 と、話すと、
「SUNSETの横の霊園でみんなでリハーサルしてたんよ。今急いでそっちに向かわせてる」
「了解、待ってるね」
 開演時間のギリギリにTsがゴスペルミュージシャンを伴ってステージ横にやってきた。
 すぐに、MCがゴスペルミュージシャンをステージに呼んで演奏が始まった。楽器がないグループでよかった。
「間に合った、ありがとうTs」
 私がそう言うと、Tsが、
「これやけん素人さんは困るよね」
 と言う。横でKtも、
「プロはやっぱり、こっち側のことも考えて安心感くれるもんね」
 と合いの手を入れる。
「そうね、いつもより大きな舞台に上がれるので少し興奮しているのかもしれないね」
 と、私は答えた。それよりもこんなことが無いようように、今一度気持ちをこっちがしっかりしてないといけない。
「Ts、Kt、最後まで気合入れて行こうね」
「あいよ、Mねーさん。じゃ、俺たち次のミュージシャン迎えに行ってくるわ」
 そう言って走って行った。

 13時から一時間一バンドの八組。あと四組だ。ふと気になって18時からのギター一本で出演するSK君に電話を入れてみた。電話はすぐかかった。
「こんにちは、SUNSETのMです。今日はよろしくお願いします。18時からの出演大丈夫ですよね?」
 そう聞くと、
「俺19時からでしょ?まだ天神にいますよ」
 と言う。なんですと〜!炎天下の中、背中に氷の塊がさーっと入ったような感覚になる。
「先日、修正したタイムテーブルをファックスで送ったんですけど確認してもらえてなかったですかね?」
「すみません、それ見てないです」
「申し訳ない、本日のSK君の出演は18時からとなっています。誠に申し訳ありませんが今すぐこっちに向かっていただけますか?」
「わかりました。すぐ向かいます」
 そう聞くと、電話は切れた。

 さぁ、どうするよ私。ステージの横に貼っておいたタイムテーブルを睨みつけて考える。
 17時からのバンドを連れてステージ横にやってきたTsとKtを呼んだ。
「Ts、Kt、18時からのSK君、まだ天神にいるみたいなんだよね。修正したタイムテーブルのファックスを確認してもらえてなかったみたいでさ。私の連絡ミス」
「え〜っ、今から天神じゃ、ギリギリか、間に合わないかもじゃない?」
 と、Ktが周りに聞こえない程度に叫ぶように言う。
 私はTsとKtがいる前で、19時から出演予定のバンド、エレキハチマキのメンバーでもある音響さんに事の次第を説明した。
 音響さんは、現場を一緒にやっていることもあり、快く演奏時間の変更を許してくれた。
 音響さんと私のやりとりを見ていたTsとKtに、
「ちょっとここからバンドの演奏の間の入れ替えの時間のDJを五分程長めにする。順番が入れ替わってるから楽器等の搬入のトラブルがないようにする為にね。それで、間に合うかどうかの危ない橋を渡るより十九時からのバンド、エレキハチマキとSK君を入れ替えます。OK?」
「了解!」
 TsとKtは飲み込みが早い。すぐに私の解決策をわかってくれた。
 17時のバンドが終わり、変更した音響さんのバンド、エレキハチマキの演奏の途中にSK君がやってきた。入れ替えておいてよかった。
 まるで、こんなスケジュールでしたよ。と言うかのようにSK君の演奏は19時過ぎから始まった。
 これで無事に終わる。と、心を撫で下ろしていたところでHさんがやってきた。
「順番入れ替わった?」
 と、聞かれ、これまでの経緯を説明した。ふんふんと頷きながら、
「最後のバンドの途中で、最終の臨時バスが出発してしまうんよね。それに乗り遅れるともうバスがなくなるから、次のバンドの演奏前にそのことを伝えて」
「わかりました」
 そっか、擦ったもんだがあってバンドの入れ替え時間のDJタイムを少し伸ばしたために思っていた終了時間より延びてしまったんだ。お客さん悩ましいだろうな。でも、これを逃すともう公共の交通機関がない。
 Hさんからの伝達事項をMCにお願いして、観客に説明してもらった。ブーイングの声が観客から聞こえた気もしたが、説明するものはしておかねばなるまい。
 最後のバンドの演奏が始まり、その途中で少しお客が減った気もした。
 どうにか地元ミュージシャンに開放したSUNSET LIVEの一日目が終わった。疲れた。
 やっとトリのバンドが演奏を終えたところで、TsとKtと顔を合わせた。
「今日はお疲れ様でした。私の確認不足で不安な気分にさせてごめんね」
 私はそう言って二人に頭を下げると、
「経験やね、次からは今一度の確認やね」
 とKtが言う。
「そうやね、念には念を押すよ」
 と、私は反省して応えた。
「でもさぁ、向こうだってすぐ近くにファックスあったはずやろうけん、見てないってのもねぇ」
 と、Ktが別の角度から意見してきた。私は、
「Kt、それ言っちゃだめ。人のせいにしだすとキリが無いやん」
「ま、そりゃそうだ」
 と、Kt。
「まぁ、今日のところは無事に終わったんやけんいいんやない。気持ち入れ替えて、明日に備えよう」
 と、Ts。私は年下の二人に励まされてその場を解散した。帰り間際にHさんに出会い、
「Hさん、今日はすみませんでした」
 と、言うと、
「過ぎたことは過ぎたこと、お疲れさん。明日もまだあるよ」
 と、言われた。そうだ明日もまだある。
「そうですね、お疲れ様でした、また明日」
 と、言って駐車場へ向かった。
 あの一瞬、本当にビビった。すぐに入れ替えると言う考えが浮かんで、音響さんバンドのエレキハチマキが快く譲ってくれてよかった。今一度気を引き締めよう。
 明日出演するミュージシャンを、今宿駅まで車で迎えに行くアテンドのスタッフ君を見つけて声をかけた。
「明日のお迎えは、このタイムテーブル通り大丈夫だよね?」
 と、尋ねると、アテンドのスタッフ君は、
「大丈夫です。全て連絡がとってあります」
 と、答えてくれた。電車が止まらない限り大丈夫だろう。
 その日は、家に着くと今日の疲れと明日への緊張感でシャワーを浴びたらボトンとベッドに倒れ込んだ。

 翌日は、いつもより早く目が覚めた。今日は昨日のようなことが起こりませんように。祈るような気持ちでアパートを出た。
 二日目のSUNSET LIVEは、いつもの年のような流れで滞りなく終わった。
「ゴミを捨てるのはかっこ悪い」と、言うことがずいぶん浸透したようで、ライブが終わった後の会場は昨年から比べると驚くほど落ちているゴミが減っていた。
 SUNSETの店内でドリンクやフードを担当していたスタッフのM兄は、今までで一番の売り上げだったと感激している。
 ゲートを担当したスタッフのTRは、入場者が千二百人くらいだったと報告してくれた。
 売り上げも入場者数も、毎年どんどん膨れ上がっている。よかった。
 門限時間が10時の宿泊先に、遅れないように出演者を送りだす。
 今年のSUNSET LIVEが終わった。Tさんと電気のコードを纏めながら、私は星空を見上げた。
 初めての二日間の公演で私はクタクタだった。いつものようにうまく行くに決まってると思い込んでた。スタッフのみんなに囲まれて、ご機嫌なHさんが店の中に小さく見える。
 会場の電気コードを全部回収して、後は明日ステージを解体するのみとなったところでTさんとクルーの皆さんを見送った。
 完璧に終われなかった自分が悔しい。何がいけなかったんだろう。どうして、もう一度SK君に連絡しなかったんだろう。人のせいにするのは簡単だけど、私はそんな性分じゃない。すごくモヤモヤしていた。ライブの熱気が残った会場でスッキリ終わった、と思えない。今まで感じていた達成感がないことに、もどかしさを感じた。
 SUNSETの店内でガヤガヤしているみんなに溶け込む気がしなかった。
 しばらくの間、ステージの横の丘に登って空を見上げていた。
 無事に終わったからいいとするか。もう、今日は家に帰りたい。
 
 今回はイベントの前に台風も来て、ライブの進行にもヘマをした。
 なんか調子よく無かったな、私。でももう第五回SUNSET LIVEは終わったんだ。
 家に帰る途中、ハンドルを握りながら思った。
 窓の外には月に照らされた波が白い線を描いている。まるで今日は何も無かったかのように。
 翌日は、いつものように午前中に会場のゴミのチェックへ。
 今までで一番ゴミの散乱が少なかった。なんだかホッとする。
 ゴミ拾いの後の綺麗になった昨日までの会場を、Hさんは満足げに新しく店の横に建てた二階建てのデッキの上から眺めている。
 私はそのデッキを下から見上げて、こんなふうにホッとできるイベントの翌日を毎回Hさんに味あわせたいと思った。

 SUNSET LIVEの後は二日間店はお休みする。みんなそれぞれ疲れた体を癒しているんだろう。
 イベントの興奮が尾を引いたままSUNSETの営業が始まった。一日目に参加した地元ミュージシャンの友達や関係者にもこの店のことを知ってもらえたんだろう。店の客足が確実に増えたことでそれを感じる。
 何処かから秋の虫の声が聞こえ始めた。けれどSUNSETの客足は相変わらず夏の日のようだった。
 SUNSET LIVEが終わって一週間もしないある日、Hさん宛の一通の封書がSUNSETへ届いた。
 Hさんはその手紙を読むと、うんともすんともない感じでカウンターに置いた。
 私は、「読んでいいですか?」と聞いてからその手紙を読んだ。
 手紙の内容は、
「SUNSET LIVE一日目の最後のミュージシャンの途中で最終のバスが発車してしまうなんてなんて言う事だ。せっかく楽しみにしていたのに興醒めもいいところだ」
 と言うような事柄が、長々と書かれていた。
 私は、胸が大きな針で刺されたかのようにチクッとした。どうしたらいいんだろう。Hさんは、
「俺、海行ってきます」
 と、言って出かけて行ってしまった。
 その日の私のシフト時間は終わり、私は店を後にした。なんか落ちるよな、あんな手紙。Hさんはどう思ったんだろう。
 家に戻っても、頭に手紙の内容が旋回してテレビをつけていても全然楽しめない。
 寝付きの悪い夜を過ごして、翌朝仕事に向かった。昨日の手紙のことについてHさんから何か指示があれば動こう。
 思い悩んで店に行ったものの、いつも通りの明るい職場だった。
 Hさんは、「そんな手紙きましたっけ?」といったふうで口にも出さない。もう少し様子を見ていよう。
 二、三日経って、ふと気が付いた。
 これから先、イベントが大きくなるにつれて楽しんでくれる人も年々増すだろう。
 もっとこうしたほうがいいと思っている人もたくさんいるはずだし、ああいったクレームも出てくるだろう。
 その一つ一つにこちら側の反省は必要だけれど、言ってきた相手一件一件に対処していたらそれだけで大変なことになる。きっとそのことをHさんは教えてくれてるんだ、と思った。
 イベントの当日に私が取った決断が、別のところに影響を及ぼした。これからは、万が一のことも踏まえて少し余裕を持ったタイムテーブルを考えるべきなんだと思った。
 大好きなSUNSET LIVEは毎年私に体験を通していろんなことを教えてくれる。

 街中の店に預けていたチケットを回収をする時に、一日目のバスの最終時間のことを何軒かの店で指摘された。私は丁寧に謝り、自分の経験不足だったと真摯に謝った。
 チケット回収の時に初めて聞かされたら、顔面蒼白になって受け合う言葉がなかったかもしれない。あの手紙で少々打ちのめされていてよかったんだ。

 間も無くやってくる冬に向かって、今年はクリスマスリースを百個作ることにした。
 SUNSET周辺の野山からツタを採ってきて、それを丸く編んでそこに木の実や布で素朴なデコレーションをする。お客さんが少ない昼下がりにスタッフが交代でツタを取りに行った。
 12月に入ったら、出来上がった素朴なリースをSUNSET LIVEを応援してくれている店に配って回る。糸島の山から作ったリースです。来年もよろしくお願いしますの気持ちを込めて。
 来年はどんな年になるんだろう。どんなSUNSET LIVEができるんだろう。いつも頭の中の半分くらいはそのことがある。SUNSET LIVEはもうすっかり私の生きがいになっていた。

SUNSET LIVE '96


 ’96年  


 梅が咲き、桜が散り、人々が虫のように動きだす。
 私はどうにか昨年SUNSET LIVE を開催することができたのをいいことに、今年は誰を呼ぼうかなと思いを巡らし、思いつくままに大好きなRC サクセションやチャーの事務所に電話を入れた。
 どこも目が飛び出るようなギャラを電話口で提示されて、「失礼しました〜!おとといやってきます!」てな心境で、すごすごとしっぽを巻いた。怖いもの知らずの若さって怖い!

 ある日、東京のスカフレイムスからSUNSET LIVEへ出演したいという連絡が入った。
 連絡してきたのはスカフレイムスのギターのNさん。Nさんは福岡出身で、今は東京でサラリーマンをしながらバンド活動をしている。
 Nさんからの話は、
「つい先日、親友が西新商店街に居酒屋をオープンしようとしていた。
オープンの前日に店主は心臓発作であっけなく亡くなってしまった。
残された奥さんと小さなお子さんを励ましたいのと、友人の弔いも兼ねて。ぜひ、次のSUNSET LIVEで演奏させてもらえないだろうか」
 と、言うものだった。
 Hさんは、
「新しいバンドが来てくれるのはいい事。しかし、メンバーの人数やギャラでイベントの収支は大きく変わってくる。そこも考えていかないとね」
 と、言われた。
 その日の夕方、時々やってきては店のDJブースで、夕暮れ時に合わせてレコードをかけにくるTっちがやってきた。私は彼がレコードをかけている横でスカフレイムスの話をした。すると、
「ここまで繋がったんやね。西新の居酒屋の店主と俺も仲良しやったんよ。
それで葬式の時にスカフレイムスのNさんと、どこかで弔いライブできたらいいですねって話になって、SUNSET LIVEの話になってね。俺がSUNSETの電話番号教えたんよ」
「そうだったんだ。どうしてここに連絡があったのかと思った」
「できるかな」
「したいよね、できる方向に頑張ってみる」
 まずは、スカフレイムスのNさんにもう一度連絡を入れてみる。
 先方は、移動費と宿泊費、それとこちらが出せる範囲でのギャラでいいとの事だった。
 よかった、RCやチャーさんの時みたいに目玉がぶっ飛ぶような金額を提示されたら呼ぶにも呼べない。
 そのことをHさんに伝えると、それくらいなら今まで来てもらっていたハードコアレゲエと変わらないだろうと言う事になった。
 呼べる、新しいバンドを!
 スカは、レゲエよりも先に好きなった音楽ジャンル。中学生の頃、車のCMで流れていたイギリスのスカバンド、マッドネスの曲で好きになった。
 スカフレイムスは東京にいた頃に何度かクラブで演奏しているのを観に行ったことがある。ロックほどトンガってなく、レゲエほどゆっくりドスンとしていない。いい感じで力が抜けた感のあるスカが、この頃の私の感性に妙に響くものがあった。
 スカフレイムスのメンバーは、それぞれ仕事をしながら音楽活動をしている。そんな部分もかっこいい。
 こうなったら、今年は「スカ祭り」が、できるといいなぁ。どこかにそれに見合うバンドはいないだろうか。
 仕事帰りに、ふらっと大名にある7インチのレゲエのレコードばかりを揃えているドンズレコードによった。レコードを探しているフリをしながら、店主のドンさんに、
「次のSUNSET LIVE に、スカフレイムスさんお呼びしようかと思ってるんですよ」
 と話しかけると、
「お、いいね合うんやない。あそこのムードと」
「ですかね?」
 私は、嬉しくなって話を続けた。
「それで、スカフレイムスに合うバンドを探してるんですけど、なんかいいバンドいないですかね?」
 と聞いてみた。ドンさんは、
「あ、それやったら、そこの壁のチラシに貼ってあるディタミネーションズがいいと思うよ。大阪のバンド。そこのチラシの下の方にBレコードの電話番号があるやろ?そこの店主のKさんって人に電話してみてん。俺から聞いたって言って」
 壁に貼ってある小さなチラシを見てみると、スーツを着たミュージシャンが演奏する姿が広角レンズで写っている。
「なんかカッコ良さそう。はい、連絡して見ます」
 私はそう言って、そのチラシに書いてあったBレコードの連絡先をメモした。ドンズレコードショップを出ると、「決まった」という気がした。早く連絡したい。
 次の日に、ドンさんから紹介してもらったバンドのことをHさんに話して、大阪のBレコードに電話を入れた。
 ディタミネーションズは、交通費、宿泊費、ギャラ全てにおいて問題なしで出演が決まった。
 新しいSUNSET LIVE の演出ができる。お客さんたちも、きっと喜んでくれるはず。夏が来るのが待ち遠しい。私の中のエンジンにギアが入った。

 SUNSET LIVE でミュージシャンに泊まってもらうのは、糸島半島の南側、寺山海岸の奥にある保養所のようなSホテル。管理側の都合で門限が十時と早いのが難だが、大きなお風呂があって、宿泊費が格安。そしてそこ以外にこの半島で大人数が格安で泊まれるところは無い。
 早々にスカフレイムスとディタミネーションズの人数分の予約を入れた。
 交通チケットの手配は、SUNSETの常連さんで旅行会社に勤めているKちゃんにお任せしている。格安のチケットを早めに取っておいてもらう。
 出演者が決まったら今年もチラシやポスター作りだ。また私は張り切って絵を描いた。
 今度は藁半紙に丸い円を描きその中にいろんな人や物が踊るように散りばめられて楽しそうな絵。今回の絵もHさんに気に入ってもらえた。

 ’96年のSUNSET LIVEの内容が日に日に固まっていく中、SUNSETの店長から提案があった。
「自分のサーフィン仲間の先輩に広告代理店の人がいる。その人を通してイベントの協賛をしてもらったらどうだろう」
 という事だった。
 店長の先輩はSUNSETにやってきて広告の内容を説明してくれた。今回のチラシとポスターに海外のビールの広告を載せてイベントの時に目玉商品として販売する。チラシやポスターのデザイン料と印刷代をスポンサー持ちとする。
 それはいい話だと、Hさんも乗り気で話は進んだ。
 私はSUNSETのイメージを出すためにチラシやポスターにはざらざらの藁半紙を使いたかった。しかしそれではアメリカのビールの写真がしっかりと印刷できないという事でテカテカの紙に変わった。不本意だったけど、広告のためならしょうがないと引き下がった。
 テカテカの紙にしっかりとビールの写真が載ったチラシやポスターができると、それをチケットと一緒に天神や西新の飲食店に配り歩く。
 新聞社やラジオ、福岡の情報誌にもイベント情報の掲載をお願いした。
 また今年も夏がやってきた。

 イベントの前日、スカフレイムスのメンバーは福岡入りして、西新の友人の居酒屋へ。メンバーに同行して私も居酒屋へ行った。
 お店はご主人亡き後、奥さんが切り盛りしている。居酒屋の奥さんは、
「明日のライブを楽しみにしています」
 と言いながら、にこやかに働いていた。
 4回目のSUNSET LIVEの日がやってきた。ステージは今年も去年と同じ東側。
 音響会社のTさんとの設営は、自分がちゃんとした大人になって仕事をしているような気分になる。
 リハーサルは、去年の失敗を思い出しながら、しっかりと時間の管理をした。どんなステージになるんだろう。盛り上がるといいな。
 リハーサルをしていたところで、店長の先輩が海外のビールの会社のスポンサーを連れてやってきた。私は、
「この度はありがとうございます」
 と、こんなもんでいいのか?と思いながら頭を下げた。すると、店長の先輩が、
「Hさんは?」
 と聞くので、あそこにいます、と店の入り口の方を指すと、
「おーい、H君、こっちこっち」
 と、大きく手招きした。HさんはHさんでイベント当日は何かと忙しい。Hさんは、大声で手招きされて呼ばれた方にやってきた。店長の先輩は、
「こちらスポンサーの誰々さん」
 と、紹介しする。Hさんは頭をポリポリとかきながら、「あ、どうも」と言ったふう。
 店長の先輩は、「お前、もっとペコペコしろ」と苛ついているのが私にも伝わった。
 しばらくすると、ステージの横にHさんがやってきて、
「俺、もう絶対スポンサーとかつけたくない!」
 と、言いにきた。この人、喧嘩に負けた小学生みたいでなんか可愛い。私は、「はい、顔を見てればわかりました」と、言うのもなんなので、
「来年からは、私たちで頑張りましょう」
 と、答えた。私もあんなビールの写真載せるために、テカテカの紙でできたチラシ嫌だった。
 せっかく自分たちで作り上げようとしているのに、広告代を出したということで、まるで自分がこのイベントの主催者のような顔をされたら、私たちの今までの苦労がチリのように感じる。
 きっとHさんも同じ考えだろう。
 今回のライブも滞りなく終わった。西新の居酒屋の奥さんは、ちいさな娘さんと一緒にステージの最前列で大盛り上がりしていた。スカフレイムスを呼ぶことが出来てよかった。
 ゴミのことを場内アナウンスでしつこく言ったり、ゴミを収集袋に集めてきた人にはビールを一杯無料でさしあげます。と言ってビーチや会場をクリーンにすることを敢えてやかましく伝えた。
 そのせいか、去年よりずいぶんゴミは散らかってなかった。

 今回出演のスカのミュージシャン達は、洒落たボルサリーノタイプの帽子をかぶっていたり、暑いのにスーツで決め込んだり、レゲエミュージシャンとは違った形でおしゃれだ。
 80年代に結成されて海外のミュージシャンと何度も共演している大御所のスカフフレイムスに出会えたことを殊の外喜んでいたディタミネーションズ。大阪では、かなり人気があるバンドのようでたくさんのファンや友人を関西方面から動員してくれた。
 新たなミュージシャンをSUNSET のお客さんに紹介できたのも嬉しかった。

 イベントが終わると、東京の外資系CDショップで働いている弟のMnにイベントの様子を伝えた。Mnは職場でワールドミュージックの担当。CDショップに入ってくる最新情報も交えて、これから活躍しそうなミュージシャンのことを教えてくれたりする。来年への仕込みだ。

 ライブが終わると、音響会社のTさんのところにお礼と設営機材の支払いに行く。
 今年のライブはずいぶんゴミが減ったとか、新たなミュージシャンもよかったねとか、反省も踏まえた話は実になることばかりだ。
 Tさんの所への支払いが終わると、きっちり今年のSUNSET LIVEが終了した気持ちになる。

 そしてまた、寂しい秋と冬がやってくる。
 SUNSET で働き出してからずっと集めていたビーチグラス。海岸に流れた瓶が波と砂で削られて曇りガラスの石のようになった物。白に青に茶色にグリーンいろんな色がある。このビーチグラスをシリコン剤で接着しながら直径十センチのドーナツ型の輪の形に重ねていってキャンドルホルダーを作った。
 これを百個作って、ライブの協力店にクリスマスから年末にかけて配ることにした。
「海にはこんなきれいな物もあるんですよ、また来年もお願いします」
 という思いを込めて。Hさんも了解してくれた。
 気持ちを込めて一件一件に回れば、海辺の小さな店が運営するSUNSET LIVEというイベントの楽しさが、もっといろんな人に通じるはずと心に念じ、客が少ないオフシーズンをそんなことで時間を潰した。

SUNSET LIVE '95

 


’95年 

 春になった。間も無くゴールデンウィークがやってくる。
 おおよそ無職だった私は、暇を見つけてはSUNSETに通っていた。お客さんは、日増しに増えている。
 しょっちゅうやってくる私にオーナーのHさんが、
「Mちゃん、ゴールデンウィークから、バイトに入らない?」
 と、声をかけてくれた。
「いいんですか?私なんかで」
「だって、いっつも来てるじゃん。どの道まもなくバイトの募集かけようと思っていたからこっちも助かる。どう?」
「はい、来ます。来させてください」
 私は、元気よく返事をした。
 冬の間、スタッフのRちゃんを手伝いながらSUNSETの建物の外壁画を描いていて、ちょうど出来上がりつつあるときのことだった。

 スタッフとしてカウンターの中から眺める海は、毎日違う表情で全く飽きることがない。
 寄せては返す波を見ながら働いていると海に感化されてるんだろうか、気持ちが澄んでいくような気持ちになる。
 湿気を帯びた夏草の匂いが辺りを囲んでいる。
 ザワザワする夏の日々が過ぎていき、間も無く8月になろうとしている。
 ランチタイムの賑やかな時間が過ぎたある日、ふと、気になって私はオーナーのHさんに尋ねた。
「今年のSUNSET LIVEは、いつするんですか?」
 Hさんは、
「いやぁ、もう今年はやめとこうかなと思ってさ。大変なんだよね、結構大博打打つ感じじゃん。天気も気になるし、来場者がどれだけかも気になるし、しんどいんだよね」
 と返された。私はびっくりして、
「ダメですよ、あれは続けないと。あんな素晴らしいイベント、続けることに意義があるんです。この先10年も20年も続けたら、すごいことになっていくんですよ」
 私は驚きとともに、なんて答えたらいいんだろう、と考える前に口からそんな言葉が出ていた。
 Hさんはウ〜ンと唸った顔をしている。
 そんな話をしているところで、外人の常連客たちがゾロゾロと店に入ってきた。つい私は、
「聞いてよ、みんな。Hさん、今年はSUNSET LIVEしないとか言うんだよ」
 この頃に来ていた外人客たちは、不思議なくらい日本語をよく喋れていた。
「Mちゃん、今なんて言った? あれはせんといかんやろ」
 オーストラリア人のJ が流暢な博多弁で言った。
「でしょ、絶対しなきゃだよね」
 私は味方ができたのを好都合に、ますますHさんに詰め寄った。
「でも、去年と同じ8月の終わりにするとしてもあと1ヶ月。だけど何にもしてないよ」
 と、弱気な口調でHさんが言う。
「しましょう。私なんでもしますから」
「わ、わかった」
 Hさんは私の勢いにのまれて首をついうんと縦に振ってしまった感じだった。
 私は勢いに乗って、
「ミュージシャンは去年と一緒でいいですね。音響さんにも連絡入れます。それと、チラシやポスター、それから・・・」
 私は、やらなければならないことを書き出し、優先順位を決めていった。そして、
「ポスターの絵、私描きます。どんなのがいいかな」
 私が少し考えていると、
「Mちゃん、この前中洲のバーに大きなラム酒のコルバの絵描いてたじゃん。あれの椰子の木の間に夫婦岩を足すのはどうかな?」
 と、Hさんが言ってきた。
「あ、それいいですね。今夜、家で描いて明日持ってきます」
「明日?」
「はい、私、絵を描くの早いんです。それに急いだ方がいいでしょ?」
 Hさんは参った。と言った様子で頷いた。
 外のデッキでビールを飲んでいた外人たちが、私たちが話している所にぞろぞろやってきた。
 Jが、
「やるっちゃろ?」
 と聞いてきた。
「うん、やるって」
 私は飛び上がりながらそう応えた。Jをはじめ数人の外人客たちは、
「俺たちもチラシ配りやら手伝うばい。なんやったら大きな垂れ幕作って親不孝通りやら天神ば練り歩くたい」
 と言ってくれた。
「ありがとう、やってやって」
 私は外人風に身振り手振りを大きくして喜びを表した。
 店の店長が、
「Mちゃんよろしく頼むよ。店のことは俺たちでどうにかするから、Mちゃんはそっちに専念して頑張ってよ」
 と言ってくれた。
「はい、了解です」
 と、私は威勢よくこたえた。
 私のお腹の中にボンと火が付いた。

 やると決まったその日のうちに、去年出演したカジャ&ジャミン、ハードコアレゲエ、地元のミュージシャンに電話を入れた。どのミュージシャンも出演の依頼を心待ちにしていたようで、二つ返事で承諾を得ることができた。
 カジャ&ジャミンは、関西のバンド。
 ハードコアレゲエは、東京のバンド。
 それ以外の出演者はバンドもダンサーも地元福岡の人たちだ。
 昨年いきなりイベントに参加した時には、どこの誰が、どこの人なのかチンプンカンプンだったが、この頃にはしっかり把握できていた。
 次は音響会社さんだ。九州のコンサートを一手に引き受けている大きな音響会社だから、一ヶ月前で、どう返事が来るかわからない。でも私はとりあえず電話してみた。
 音響会社の社長のTさんも、今年はしないのかと思い倦ねていたようで、明日にでも会社にいらっしゃい、と言ってくれた。
 その日の夜、家に帰ると私は美大時代の画材道具を引っ張り出し、猛烈な勢いで約束した絵を描きあげた。
 翌日、描いた絵を持ってSUNSETへ出勤した。Hさんは、描いてきた絵を見て、
「いい感じやね、俺もやる気が出てきたよ」
 と、言ってくれた。
「私は今日、音響会社のところに行ってきます」
「わかった、俺も一緒に行こう」
 ふたりで音響会社に向かい、今年のSUNSET LIVEについて計画を練った。
 音響会社を出ると、Hさんは、
「俺、あのTさんを目指してるんよ。あんな大人になりたい」
 と、桜坂の木立の上に立つ音響会社の社屋を、眩しそうに仰ぎ見ながら言っていた。

  SUNSETへ戻る帰り道、
「最初の年のSUNSET LIVEは店に来ていたレゲエ好きの常連客たちが、
『ここでライブをしよう!』と言い出し、
ほとんど俺は手を入れる事なくイベントは場所を貸すような感じで進んでいった。
ステージは大型トラックのトレーラー部分を使ったものだった。
その様子を見た音響会社のTさんが、
『あれはステージとは言えない。うちの会社にできる事だったらなんでもやるよ』
 と、言って2回目の去年から参加してくれた」
 そんな事を、Hさんが話してくれた。

 それからの一ヶ月は、去年のSUNSET LIVEで走り回った一日のように、毎日走り回った。
 出来上がった絵をHさんの友人のグラフィックデザイナーのところに持ち込んで、ポスターとチラシを作ってもらう依頼。
 スピード印刷屋さんでライブの入場チケットを作ってもらう。
 ミュージシャンの交通チケットの手配、ギャラの計算。
 出来上がったA4サイズのチラシや大きなポスターには、チケットを売ってくれるお店のロゴが、ずらりと何十件も載っている。
 そのお店一件一件にポスターとチラシ、封筒に入れたチケットを預けにいく。
 チケットを預かってもらう大部分の店が夜をメインに営業している飲食店。
 毎日たくさんのチラシとポスターを車のトランクに乗せて、Hさんと私は二人で手分けしながら天神や西新のお店を訪ねて回る。
 出演するミュージシャンから音響会社へステージ上でのマイクや機材の配置図をファックスしする。
 毎日毎日やってもやっても仕事は盛り沢山だった。
 
 どんどんSUNSET LIVE開催の日が近づいている。
 後一週間でイベント当日という日に、前日と当日に手伝ってくれるスタッフの数を店のカウンターで数えながら、はたと気がついてHさんに尋ねた、
「Hさん、スタッフTシャツは?」
「ありゃ、抜けとったね」
「去年はどうやって作ったんですか?」」
「去年は、友達の店が閉店するっていうんで、その在庫処分のTシャツを格安で分けてもらってプリントしてもらったんよ。でもその店はもう無くなった」
「ありゃま、じゃぁ今年はどうしましょう。もう時間もないし」
 Hさんと昼の営業担当のAちゃんとカウンターで悩んでいると、オーストラリア人のJがやってきた。
「どうしたと?みんな困った顔になっとるよ」
 と、言うので、
「そうだよ、ちょっと困ってる。ライブのTシャツ作るの忘れてたんよ」
 と、私は今、悩んでいることを伝えた。すると、
「最近、姪浜にやってきたカナダ人の夫婦がシルクスクリーンをするよ、聞いてみようか?」
 と言ってくれた。
「お願いしましょうか?時間ないし」
 と、私が言うと、
「J、とりあえず聞いてみて」
 と、Jに向かってHさんが言った。
 ギリギリセーフで、イベント用のTシャツは出来上がった。

 昨年、イベント当日に散々神経をすり減らした「誰が誰?」と言うのが誰でも解るように、首から下げるネームタグをハガキの半分くらいのサイズにダンボールを切って作った。
 色はラスタカラー。
 ミュージシャンは表に「GUEST」裏にバンド名、関係スタッフには「STAFF」と書いてそれぞれの名前を書いた。これで誰が何をする人かがすぐ解る。
 他に抜けていることはないだろうか。私は今までやった事が無いことをしている為に、確認が出来ずに毎日緊張していた。
 その代わり、やると決めた日から作ったノートに、日付をつけて、やるべき事は一つ一つリストアップしていった。
 そして、ちゃんとやり終えたら線を引いて消していった。

 第3回SUNSET LIVE 開催前日。
 去年と同じように朝から大きなトラックが会場づくりのためのテントやステージの足場をどんどん運び込んでいる。
 今年は、去年のステージの位置から場所を一変して、音響会社の社長T さんの提案で店の東側にステージを作ることとなった。ステージの背後はすぐ山、その山に「SUNSET LIVE ’95」の大きな切り抜き文字が浮き立つ。
 照明は山の色や自然の色を引き立たせるためと経費節約のため一色。これも音響会社のTさんのアイディア。
 Tさんはニコニコ笑いながら、大きな会場をどんどん指揮して作り上げていく。
 夕方までに会場が出来上がると、「では、明日」と言って会場を設営していた音響会社の人たちと一緒にTさんも、さくっと帰っていった。
 いよいよ明日だ。「もう、やらない」とHさんが言っていたライブをやるところまで持ってきた。後は、明日の波に乗るだけだ。私も明日のために早々に店を出て家路についた。

 翌朝、お天道様が「さぁ頑張って、いってらっしゃい」と言っているかのように晴れた。私は、朝早く平尾の家を出てSUNSETに向かった。
 今日は私が去年のDさんのように会場の袖で指示を出す役割だ。Dさんが去年使っていたタイムテーブルをそっくりに真似して今年のタイムテーブルも作った。
 ステージの側で私をサポートしてくれるのは、体格のいいサーファーの男の子たち。
 SUNSET までの道のりでイベント会場に着いたら、する事を頭の中で整理しながら車を走らせた。
 SUNSET に着くと、スタッフ全員が集合して挨拶をかわし、それぞれの仕事の役割を確認しあった。
 さぁ、リハーサルだ。出演者の最後の方から始めて、一番最初に出るミュージシャンが最後にする。こうしておくと最初の楽器のセッテイングがそのままでいいからだ、とTさんに習った。
 最初のリハーサルが始まった。リハーサルの予定時間はそれぞれ30分。それを過ぎても全然終わろうとしない。
「どうして?」
 ぽかんとステージを見ていると、ステージで楽器の設置を担当している音響会社のスタッフのお兄ちゃんが、
「ディレクターのMさんが指示出さないと、いつまで経ってもリハやってるよ彼らは」
 と、ぽそっと教えてくれた。
 そうか、そう言うことか。私はすぐさまステージの前に立ち、
「リハ、後五分で終わってください」
 と、大声でリハーサル中のミュージシャンに声をかけた。また一つ覚えた。
 大きな声で、それぞれのミュージシャンに指示を出しながら、リハーサルは無事にすんだ。
 今回のMCは、いつもいろんなシーンで助けてくれたJがやってくれる。オーストラリア人で巧みに博多弁を話すJ は、きっと会場中を盛り上げてくれるはず。
 本番が始まった。最後のバンドまで、去年Dさんがやっていたように、サポートの男の子に指示を出し、ミュージシャンを呼んできてもらいの繰り返しをしていたら、あっという間に最後のバンドになった。
 会場をオープンしてから、最後のバンドが演奏し終わるまでが五分くらいに感じた。私は音楽を楽しむなんて事はてんで出来なかった。それよりも無事に今日の興行が終わった安堵感の方が大きかった。
 今回もSUNSETの前の海岸には波がたち、海にはたくさんのサーファーが海にプカプカ浮かんで波乗りを楽しんでいる。波乗りしながら音楽が楽しめるなんて最高だろうな。大きな夕日がサーファーたちの向こう側に沈んでいった。
 私の気持ちは去年ほど恍惚とはしていない。
 それよりもお客さんたちは楽しんでくれただろうか?そんな事を思いながら、とっぷりと暮れた会場の中でゾロゾロと出口に向かう観客の後ろ姿を眺めた。

 東京にいた頃、弟たちとレゲエの野外ライブに何度か行った。会場は遊園地の中の円形ステージだったり港町の特設会場だったり。有名な外国のミュージシャンたちがやってきて素晴らしい演奏を楽しんだ。あの頃のあれは、それはそれで楽しかった。単なる観客だったわけだし。
 この自然たっぷりの中で行われるSUNSET LIVE はやっぱり素晴らしい。
 なんだろう、開放感?ずっと続けていきたい。そんなことを夕焼けに照らされる海を見ながら思った。

 日が暮れてしまった。去年はこの辺りで私はお暇した。
 今回は最後まで見届けなければなるまい。
 ステージの機材がほとんど片付けられ、電気を引いていたコードが今までひっそりと隠れていた蛇のように地面のあちこちに見える。それを音響会社のTさんが肘を使って上手に巻いていっている。私も真似してコード巻きを手伝った。
 
 人が去っていった会場には、たくさんのビールの缶や食べ物を包んでいたゴミ屑がボロボロ落ちている。
 たくさんのゴミを眺めながら、最後まで残っていたスタッフたちと会場の片隅に集まった。
「このゴミ、悲しいですね」
 つい私は口に出してそう言ってしまった。
「そうなんよね、これどうにかならんかね」
 私の言葉にHさんもそう答えた。
 そして、イベント中のちょっとしたアクシデントや困った観客のことなど、次々にスタッフの口から溢れてくる。
「今日のところは事故もなく終わったんだからよしとしよう。みんなお疲れさん」
 Hさんがそう言うと、みんな興奮していた体から何かが抜けていくかのような顔になり、各々帰り支度を始めた。
 音響会社のTさんも、
「じゃぁ、明日午前中にステージの撤収にうちのスタッフが朝から来るから、お疲れさんね」
 と言って帰っていった。
 そっか今日のところは終わったんだ、と思った。何が何だかわからないまま終わっていった気がした。

帰り道の運転は、行きがけの意気揚々とした気分とは裏腹に、ただぼーっとしていた。
 翌朝、SUNSETは店もスタッフもお休みだった。けれどなんとなく気になって私は車を走らせた。
 SUNSETの駐車場に設置されていた仮設ステージは、すっかりなくなり元の通りの駐車場に戻っていて、そこに一台だけHさんの車が停まっている。
 Hさんは、店の周りのゴミ拾いを一人でしていた。
 私は、Hさんを手伝って一緒にゴミ拾いをした。
 お昼近くまでかかって、SUNSET 近辺のゴミ拾いを終えると、Hさんが、
「Mちゃんも疲れたやろう。もう今日は帰ってゆっくりしい。明日は一日しっかり休んで、明後日からはチケットの回収が待ってるよ」
「そうですね、今日はここら辺で帰ります。お疲れ様でした」
 私は、ライブの次の日の状態を見にいって良かったと思った。あんなに散らかってるなんて。来年への課題だ。

 ライブの二日後からは、ライブのチケットを預かってもらっていた店への回収作業が始まった。たった一件で百枚近く売ってくれるお店。一、二枚しか売れなかったお店、と様々だ。
 どこの店にも同じように頭を下げて回る。来年もよろしくお願いしますと言いながら。

 SUNSET LIVEが終わると辺りの木々や葉っぱを掃除するかのような台風がやってきて、「はいこれで夏は終わりました」と、言うかのように秋がきて、ストンと冬がやってくる。

 私は、来年のライブのために何か印象的な年賀状が作りたいと考えていた。
 缶ジュースや食材の仕入れの時に出る段ボール箱を葉書サイズに切って、そこに年賀状印刷用のおもちゃの印刷機で大きく三段に書いたHAPPY NEW YEARの文字を印刷し、真ん中の段のNEWのEの部分を直径二センチの円に切り取る。その切り抜いた円の中に、店でたくさん廃棄しているビールやジュースの瓶の蓋に椰子の木と夕日をマーカーで描いたものを埋め込む。
 いつもは捨ててしまうもので作った年賀状。
 そんなものを出していいか、Hさんに相談した。
 Hさんは「面白いね、いいよ」と、OKをくれた。
 段ボールを数百個切って、手作業でプリントして、穴を開けて、絵を描いた瓶の蓋を埋め込んでの作業をひたすらやった。こんな年賀状が届いたら、きっともらった人はびっくりするはず。
「リサイクルした段ボールや瓶の蓋はこんなに可愛くなりますよ。来年もよろしくお願いします」
 の気持ちを込めて。

 冬になるとSUNSETの客足はパタっと少なくなる。
 秋から冬は玄界灘に面する糸島半島は大きな波が立つ。
 Hさんは客が少ないのをいい事に、午前中の買い出しが終わるとすぐに波乗りに出かけてしまう。
 残された私とAちゃんは、店内のディスプレイを変えたり、クリスマスのデコレーションを作ったり、仕事なのか遊びなのかわからないような作業をして時間を潰した。

SUNSET LIVE '94


’94年夏、
 ’93年、私は滞在していたイタリアで体調を崩し、帰国して春に手術をした。
 まだ体調が良くなかったので仕事にもつかず、暇さえあれば母に車を借りて福岡市内からSUNSETに遊びにいっていた。

 SUNSET LIVE '94の数日前。
 SUNSETでは店員さんが店の前のデッキで、大きな段ボール箱にマジックでゴミ箱と書いてそれにビニール袋をかけてライブ会場内で使うゴミ箱を作っていた。

「私にも手伝わせてください」

 と言って、私は作業を手伝わせてもらった。楽しい、こういうの。
「私、時間があるんで、他に何かすることあったら手伝わせてください」
 そう言って、その日からライブの設営のお手伝いをすることにした。

 SUNSET LIVEの前日には、店の駐車場に大きなトラックが続々とやってきた。
 トラックの荷台から次々に機材が出てくるのを眺めていたら、あっという間にSUNSETの建物の横にステージが設営された。
 ついに明日、ここでライブがあるんだ。
 ワクワクしながらその様子を見ていると、SUNSETのオーナーHさんが近づいてきた。
「明日は楽しみですね」
 と、私が言うと、
「うん、楽しみだ。そうだ、明日も手伝ってくれる?」
「私、チケットもう買ったんで、明日はお客で来ますよ」
「チケットは払戻しするから」
 そう言って、Hさんは私にチケット代を渡して、
「じゃ、明日は全員10時集合だからよろしく」
 そう言ってどこかに行ってしまった。
 Tシャツに短パン姿でヒョロンと背の高いオーナーのHさんは、三十代の男性だ。日に焼けた浅黒い肌で、
「サーフィンが大好きで波が上がれば、店そっちのけで海に行ってしまう」
 と、店の従業員の人から聞いていた。また海に行ったんだろうか?なんとも掴みどころのない人だ。
 明日、私働くんだ。みんなと一緒にLIVEに行く約束してたのに。まいっか、スタッフ側っていうのもなんか面白いかもしれない。
 翌朝、渡されたスタッフTシャツを着て車に乗り込んだ。
 前日言われた通りに、集合時間の午前10時少し前にSUNSETに着いた。
 いつもの海辺にポツンとある掘建て小屋のような店の周辺はライブ会場に様変わりしていた。
 設営されたステージの横に積み上げられたどでかいスピーカーからは、音響さんがマイクや機材の音のテストに「あ、あ、ワンツーワンツー」と、いう音が爆音で聞こえている。
 うわ、なんだか胸が高鳴る。
 私は従業員用の駐車場に車を止めてSUNSETの建物の方に向かった。ステージの横にいるHさんを見かけ、
「おはようございます。今日私は何をしたらいいですか?」
 と、聞いた。隣には体格のいい男の人がいる。
「おはよう。こちらはライブのディレクションと司会をしてくれるDくん、こっちはMちゃん」
 Hさんの横にいた体格のいいDさんは、
「おはよう」
 と、言いながら握手を求めてきた。私は、
「おはようございます」
 と、言いながらその握手に応えた。
「Mちゃんは、このDくんのサポートをしてください。じゃ、よろしく」
 そう言ってHさんは、またどこかに行ってしまった。あの人消えるの早い。
 私はてっきりゴミ拾いか、入り口でチケットもぎりのお手伝いでもするのかと思っていた。
 サポートって何よ、何すればいいの。
 私はDさんに率直に、
「すみません、私は何をすればいいですか?」
 と、尋ねた。Dさんは今日行われるライブのタイムテーブルを私に見せて、
「今日はこんな感じで進行するようになっている。僕は常にステージの下手のここにいる。Mちゃんは出演者を出演30分前にここに呼んで来たり、細々とした僕の指示に従ってください」
「わかりました」
 私は、分かっても無いくせにとりあえずそう答えた。これは大変な作業だぞ。
 午前中に出演者のリハーサルが始まった。
 カジャ&ジャミンだ。東京にいるときにS市君が送ってくれたカセットに入っている。カセットで聞くよりやっぱり生で聴くと迫力がある。
 そしてハードコアレゲエ。なんかあのボーカルの人見たことある。わかった、池袋のクラブでレゲエクリスマスのイベントがあったときに歌っていた人だ。思い出した。
 聞いたことのあるミュージシャンが、次々にステージでリハーサルを済ませて降りてくる。
 しっかりとミュージシャンたちの顔を覚えておこう。後で本番前に呼びに行くときのために。
 私は気合を入れてそれぞれのミュージシャンの顔を覚えた。

 開場は午後2時、本番スタートは午後3時から。
 朝の10時に来てからあっという間にその時間がやってきて開場となった。
 福岡市から糸島半島の先っちょにあるSUNSETへは、車で来れない人のために今宿駅からのシャトルバスもこの日には特別運行されている。
 カラフルなサマーウエアを着た人や水着姿同然のような格好をした人たちが、いつもは駐車場として使っているライブ会場に続々と入ってくる。
 いよいよ始まる。DJブースからは軽快なレゲエサウンドが流れている。
 ステージの袖にいるDさんからの指示が入った。
「Mちゃん、最初に出演のミュージシャンを袖に呼んでおいて」
「ハイ、わかりました」
 私は会場中を走ってミュージシャンたちを見つけ、
「そろそろ出演の準備にステージの袖にお願いします」
 と、言いに行った。これを何回繰り返しただろう。

「私走る電線みたいだ。でもなんか楽しい」
 そう思いながら、ただひたすら夕方になるまで同じ事を繰り返し走り回った。
 個性的なミュージシャンのグループ名と顔は瞬時に覚えることが出来たものの、どの人たちが東京から来た人たちで、どの人が福岡の人なのか、20歳で福岡を離れて7年ぶりに福岡に帰ってきた私には全くわからなかった。
 そんなことよりも今日このイベントが滞りなく進行すること。そのことのみに集中した。
 どんどん増える観客の中、ノリノリのカジャ&ジャミンの演奏が終わり、最後のバンドの前にココナッツと言うグループのダンサーがステージに登場した。DさんがMCであおるだけ煽って会場を盛り上げている。
 パラオに身を包んだダンサーは足元はドクター・マーチンの編み上げブーツ。会場が盛り上がったところでぱらりとパラオを脱いで、おへそが見えるピタッとしたトップスにショートパンツでガンガンお尻を振ってレゲエダンスを踊りまくっている。会場は大興奮だ。
 もうこれ以上盛り上がらないだろうと言うところまで盛り上がった会場のオーディエンスは、一つの生き物のようになったかのように右に左に揺れまくっている。
 そして大取りのハードコアレゲエのステージが始まった。
 ステージの眼下には海岸が広がり、そこにサーファーたちがプカプカしている。
 その先に大きな夕日が沈もうとしている。
 こんなハッピーな空間が今この地球上で他にあるだろうか、と言うくらい恍惚とした光景だった。
 タイムテーブルを覗くと最後の演奏があと十分で終わるのを確認した。
 ステージの袖ではDさんがステージとオーディエンスを満足げに見渡している。
「Dさん、もう私たまらない。踊ってきていいですか?」
「行っといで、思いっきり踊っといで」
 Dさんにそう言われたのをいいことに、私は階段を駆け上がりステージの後方でコーラスとダンスをしていた女性たちの中に紛れ込んで一緒に踊った。
 コーラスの女性たちも歌い踊りながら、
「いいね、一緒に踊ろう」
 と言う感じで、歓迎してくれている。
 音に乗って体を揺らしていると、踊っている自分を上空から眺めているような気分になった。
 どうしてレゲエのリズムってこんなに心地いいんだろう。高校生の頃バンドを組んでいた時は、縦ノリのパンクが大好きだった。ガンガン飛び上がって汗をビッチリかきまくってドカドカ踊ってるのが好きだった。
 今この場所で感じているリズムは、縦乗りとはまた違う。ドラムやベースの音が心臓の鼓動にしっかりと響いてくるこの感じ、まるで目の前の海の波が寄せては返すかのような感じで自然と一体化しているような気分。レゲエってなんて気持ちいいんだろう。

 はたと気付けば、演奏は終わっていた。
 会場を盛り上げたミュージシャンはステージから降りて行こうとしていて、音響さんが機材を片付け始めている。私は一瞬我を忘れて何処かに行っていたようだった。
 大興奮の中、SUNSET LIVE ’94 は幕を閉じた。
 観客として楽しめなかったことへの後悔は、微塵もなかった。
 それよりも海岸近くの自然あふれるこの場所で、同じ時間に大勢の人と楽しめた達成感に心は満たされた。

山笠が終わったらSUNSET LIVE


 山笠が終わって、今年のSUNSET LIVEのポスターが届いた。

私がサンセットライブに携わっていた頃は、

音響担当のSTAFFのTさんから、

「山笠までは忙しいけんね、その後で、じっくりライブのことを進めて行こうね」

と、諭されたものだ。


私がサンセットライブのことを知ったのは、

’93年、イタリアに住んでいた時のことだ。

福岡に住む、高校時代の友人Yちゃんが送ってくれた手紙の中でだった。そこには、

「マコ、夏に海岸沿いでサンセットライブってのがあって、すごく楽しかったけん、来年は一緒に行こうよ〜」

と、書いてあった。

その頃の私は、イタリア人の彼氏と結婚するつもりだったし、

行けるかな?そのライブ、くらいの思いだった。


初めてこのライブを知った日から早30年。今年で最後と聞いて、

「山笠があるけん博多たい!」くらいの勢いで、

「SUNSET LIVEがあるけん、糸島たい!」ではなかったのかと思う。

山笠は歴史も古く、神事だから比べるのもおこがましいのだが、

祭りやフェスというものは、祭りの当日にグワーっと盛り上がる。

その日を目指して、幾月も前から同じ方向や目的に向かって、

多くの出演者や関係者、スタッフが集中して気持ちを込める。

要は、一つの場所に大きな気の塊が出来上がっていく気がする。

あたために暖まったその気は、祭り当日に大爆発を起こし、

祭りの後の何日もの間、その気をあたり一面に散りばめる。

大きな”いい気”の流れを、その土地に散りばめる効果がある様な気がする。

今年で最後かと思うと、これからの糸島がちょっと心細い気もする。


’93年に知ったサンセットライブ。その翌年から私はスタッフとして働くことになった。

私にとっては人生の中で、とても大きな出来事の連続だった。

そんな忘れたくない日々。

’94年から’99年までの私が見たSUNSET LIVEをこのブログに残しておこうと思う。

どうぞ、暑い日の最中、涼しいところでゆっくり呼んでみてください。





SUNSET LIVE '99

’99年   年が明けて、二月に私は一人でハワイへ旅立った。オアフ島から小型ジェットに乗ってPさんが住むマウイ島に向かった。  マウイはオアフより自然がたっぷり残っていてバスや鉄道などの公共交通機関も充実していない。Pさんはハワイらしいオンボロの車に乗って空港に迎えにきてくれた。...